小説『アイスリンクの導き』第19話 「10年後の翔平へ」

『氷上のフェニックス』(小宮良之:著/KADOKAWA)の続編、連載第19

 岡山で生まれた星野翔平が、幼馴染の福山凌太と切磋琢磨しながら、さまざまな人と出会い、フィギュアスケートを通して成長する物語。恩師である波多野ゆかりとの出会いと別れ、そして膝のケガで追い込まれながら、悲しみもつらさも乗り越えてリンクに立った先にあるものとは――。

 今回の小説連載では、主人公である星野がすでに現役引退後の日々を送っている。膝のケガでリンクを去る決意をしたわけだが、実はくすぶる思いを抱えていた。幼馴染の凌太や橋本結菜と再会する中、心に湧きあがってきた思い...。

「氷の導きがあらんことを」

 再び動き出す、ひとりのフィギュアスケーターの軌跡を辿る。
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第19話 10年後の翔平へ

 波多野ゆかりは、小さくてかわいかった星野翔平を呼び止め、思い切って話しかけたときの光景をよく覚えている。

 野岳山合宿の後、リンクの脇で丁寧にブレードの水分をタオルで拭いている翔平を見つけた。大きな黒目でスケート靴を見つめながら、愛おしそうに扱う姿に一瞬で吸い込まれた。理屈ではない。氷の上で踊るように滑る姿と合わせ、それは自分の中でスイッチを押された感覚があった。

「世界中の人に、あなたのスケートを見せましょう!」

 当時12歳だった翔平に突然、波多野は言った。一目惚れの感覚に近い。

「僕は凌太じゃないですよ?」

 翔平は面食らっていたが、見間違えるはずはなかった。

 波多野は話し込みながら、湧き上がる衝動を抑えきれずにいた。年端のいかない少年に輝きを感じた。雨上がりの晴れ間のように鮮やかで、決して与えることはできない光を纏っていた。持って生まれたもの、あるいは勝手に身についた輝きだった。

「お母さんとお父さんに相談します」

 律儀に言う少年を、どうしても自分の懐に入れたくなって、大人げなくがっついて、「あなたは、あなたの美しい演技ができる」と褒めちぎった。「自信がなくて」と目を伏せる姿に、「練習好きは才能よ」と大声で励ました。

 一人の少年の才能に惚れ込んだのだと思う。ローマ神話のビーナスの子、キューピッドに黄金の矢で心臓を打ち抜かれたように。それはほとんど恋そのものだった。もう、絶対に彼を離したくない。強力な引力を感じた。

「一番になるのもいいけど、世界中のみんなに、素敵って言われる演技を目指さない? 翔平君だけのスケートを」

 翔平は素直に、「はい!」と返事をしたのだった。

 波多野は、全身でときめきを感じていた。これは楽しい人生になる、と確信した。その成長を間近で見守って生きていくことが、スケート界にかかわる人間として、どれだけ幸せなことか。世界中に向けて叫びたくなった。

「私は今、最高に幸せなの!」

 これからリンクで彼が創り出すスケートに会うたび、私はウキウキし続けるだろう。今日はどんな滑りを見せてくれるのか? どんなスケーターになっていくのか? 日々、それを肌で感じ続けるのだ。

〈自分の青春時代はもう過ぎた。残った命を燃やして、何かを彼に伝えたい〉

 波多野は、指導者としての使命感につき上げられるようだった。

 それから10年、翔平と一緒の日々を過ごすことができた。自分の勘が間違っていなかったことが誇らしかった。一人になってバーでワインを飲んでいるときなど、知らない人に自慢したくなったが、下品な行為をどうにか耐えた。初恋を楽しんでいる無垢な少女のようだった。

〈思いは自分の中だけに沈めて、ひそやかに楽しむの〉

 大人の波多野は内心でそう囁いた。

 あと10年後、どうなっているのか?

 今、こうして病床で横になっている自分は、それを見守ることはできないだろう。その不幸に、一気に気持ちは暗くなった。しかし、翔平が輝く姿を10年も一番近くで見守ることはできた。

「悪いものではなかった」

 波多野は自分の人生をそう誇ることができた。

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