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小説『アイスリンクの導き』第19話 「10年後の翔平へ」 (2ページ目)

 小、中、高校生と氷の上で好きなように踊り続けてきた。大学生になり、全日本の舞台に立てたのはうれしかった。しかし表彰台は遠く、「いつまでも競技を続けられない」という年齢が迫っていた。大学卒業と同時に、自分は大好きなスケートから離れるのだろうか。そう考えると、世界に帳が下りるように悲しくなった。

 20歳になる年、長野で冬のオリンピックがあった。親に旅費を無心した。祖母が成人式の振袖を買ってくれると言ったが、「要らないから、代わりに五輪の試合を生で観たい」と懇願した。

 1950年代、60年代を代表する日本女子フィギュアスケーターで2度のオリンピックに出場した浅丘雪乃選手の8ミリフィルムを食い入るように観ていた。海外の試合のすばらしさ、街の素敵さを感じ、その映像自体にすごく憧れがあった。それを長野で観られるなら、"絶対に行きたい!"と思った。女性が海外に一人で行くなど、当時は夢の時代だったのだ。

 だから、日本国内で行われるなら、そんなチャンスは巡ってこないと思っていた。

〈大阪から鈍行列車を乗り継いでも本場のスケートを観に行く〉

 不退転の気持ちだった。それにきっと、「スケートが好き」という自分の気持ちを試したかったのだ。

 結局、飛行機代もホテル代も親と祖母が賄ってくれたのだが、現地では練習から夢中で見た。血眼になって、選手たちの一挙手一投足を追った。特に男子選手が本当に素敵で、氷の上で自由に踊って滑れて、振り付けが曲に合わせて格好よく、ジャンプを跳べていた。

〈これがフィギュアスケートなんだ!〉

 胸がドキドキし続けるほど、開明的だった。

「踊ってジャンプして、こういう選手を育てたい!」

 それが指導者への原点になった。

 日本全体では、男子選手が「踊るプログラム」は浸透していない時代だ。世界でも、踊れた選手は主流ではなかった。「手のひらを真下に向け、腕は伸ばして」という型にはまった滑りが基本だったのである。

 自分が選手だった時代はコンパルソリーの練習がメインで、氷上を滑って課題の図形を描き、その滑走姿勢と滑り跡の正確さを競った。図形=フィギュアという言葉が、フィギュアスケートの由来である。そのため、競技の草創期は「物事をコツコツとできるか」「寒いところでも続けられるか」という規則的な正確性や辛抱強さのような技術や性格が求められた。

 コンパルソリーはその後、ショートプログラムに置き換わり、ほぼ廃止されている。

 波多野は確信していた。一つの時代が終わって、「男子選手も踊らないといけない」という新しいフィギュアの流れになる。男性がダイナミックに繊細に、アーティスティックな振り付けで踊る姿は魅力的で、それに人々は気づくだろう。

 そしてやがて、華麗に踊って、スケートのうまさを存分に見せる男子選手たちが数多く現れたが、一方でフィギュアスケーターに求められる資質は時代とともにどんどん変わる。

 フィジカル面では、ジャンプを跳ぶために速筋と反射の速さは欠かせないものになった。ジャンプを跳べないと点数に反映されない。トップレベルで戦うには最低限のフィジカルは必要になった。ジャンプは少しずつ培って成長できる選手もいるが、「4回転を何種類も必要」となると、そこまでいける選手は絞られる。踊ること、スケートがうまいこと、よりも単純な「何回転跳べるか」という競技性が突き出た。

 しかし、波多野は信じていた。

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