オリンピック2大会連続出場の土佐礼子は「高校生よりも遅い自分が生きる道」とマラソンを選んだ
マラソン15戦で5位以内が12回(優勝3回)、二度出場した世界陸上でもメダル2個(銀、銅)と、安定感のある走りが持ち味だった photo by Tsukida Jun/AFLO SPORT【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶.6
土佐礼子さん(前編)
陸上競技のなかでもひときわ高い人気と注目度を誇るマラソン。オリンピックの大舞台で世界の強豪としのぎを削った、個性豊かな日本人選手たちのドラマは、時代を越えて人々の心を揺さぶる。
そんなレジェンドランナーの記憶をたどる本連載。今回は2004年アテネ、2008年北京と2大会連続でオリンピックに出場し、同じく二度出場した世界陸上(2001年エドモントン、2007年大阪)ではいずれもメダルを獲得した土佐礼子さん。
たとえスピードでは劣っていても、容易には勝負をあきらめない、その粘り強い走りはどのようにして生まれたのか。全2回のインタビュー前編は、軽い気持ちで初マラソンを走った大学時代から、自身初のオリンピックとなったアテネ五輪までを振り返ってもらった。
【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶
【社会人初マラソンで高橋尚子の強さと速さを実感】
マラソンランナーになりたい――。
土佐礼子がそう思ったのは、松山大学3年の時だった。その年、以前から地元の松山で開催されていた愛媛マラソンに女子の部が新設され、大学生活の記念にもなると考えた土佐は出場を決めた。
「大学には女子チームの指導者がいなくて、OBの方が教えに来てくれていました。私は5000mが16分40秒ぐらいで、10000mもインカレに出ると(先頭から)1周差をつけられるか、というくらいのレベルで、高校生よりも遅かったんです。それでも、3年の時、先輩の卒業記念で『マラソン、一緒に走る?』みたいな軽いノリで出たらサブ3(2時間54分47秒)で走れて優勝もして。それから根拠のない自信が生まれて、『私はマラソンランナーになる』と思うようになりました」
1999年に松山大学を卒業すると、三井海上(現・三井住友海上)に入社した。チームには、インターハイで優勝するようなレベルの高い選手がたくさんおり、最初は練習についていくのも必死だった。そんななか、トラック種目でのタイムがなく、自らを「高校生よりも遅い」と感じていた土佐が「自分が生きる道」として選んだのがマラソンだった。
そして、鈴木秀夫監督の指導のもと、地道に、着実に練習をこなしていると、"走れる"感覚が身についてきた。翌2000年3月、社会人初マラソンとなる名古屋国際女子マラソンの前には、鈴木監督に「初マラソン日本記録の2時間26分台は出せる」と言われた。このレースは、シドニー五輪の代表選考レースで、高橋尚子(積水化学)をはじめ有力選手が多く出場することになっていた。
「高橋さんは意識していました。というのも、私は、実業団にどうにか入れてもらったレベルの選手だったので、会社を宣伝しなきゃいけない、テレビに映らなきゃいけないって思っていたんです。それで、高橋さんの後ろを走ったら映るかな、どこまでついていけるかなと思いながらハーフ(中間点)までついていったんですが、それ以降は高橋さんがあっという間に先に行っちゃいまして。その強さと速さを肌で感じました」
それでも土佐は、高橋に次いで2位に入り、2時間24分36秒の好タイムをマークした。その後も好調をキープし、同年11月の東京国際女子マラソンで2位(2時間24分47秒)、翌2001年8月の世界陸上エドモンド大会では、シドニー五輪の銀メダリストであるリディア・シモン(ルーマニア)に競り負けたものの2位(2時間26分06秒)、2002年ロンドンマラソンでは2時間22分46秒の自己ベスト(当時日本歴代3位)を出して4位に入った。
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著者プロフィール
佐藤 俊 (さとう・しゅん)
1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。近著に「箱根5区」(徳間書店)。