オリンピック2大会連続出場の土佐礼子は「高校生よりも遅い自分が生きる道」とマラソンを選んだ (4ページ目)
【オリンピックの悔しさを晴らすのはオリンピックしかない】
4年後の北京五輪にすぐに視線を向けられたのは、アテネでオリンピックという存在の大きさを実感したからでもあった。
「オリンピック発祥の地であるアテネ大会に出て、オリンピックに心を奪われ、次の北京五輪に出たい気持ちがすごく強くなったんです。アテネでは勝負できなかったので、その悔しさを晴らすのは北京しかない。アテネ後は北京までどんな大会に出て、代表の座をどう仕留めていくのかを、本番から逆算して考えていました」
最初は2004年11月の東京国際女子マラソンに出て、翌2005年の世界陸上ヘルシンキ大会を目指そうと考えていた。アテネ五輪から東京国際まで3カ月しかなかったが、鈴木監督に「おまえ、走るか?」と言われていたこともあり、土佐は準備をしていたのだ。ところが、レースの間隔が短いことに加え、チームに同大会に出場する選手が他にもおり、また、駅伝もあるので、最終的には「土佐は1回、休み」という判断になった。
「そこで監督と少しケンカになりましたね。『走るか?』って言われたから。私は出るつもりで準備をしていたので」
レースを飛ばされた土佐は、周囲を驚かせる行動に出た。
(つづく。文中敬称略)
土佐礼子(とさ・れいこ)/1976年生まれ、愛媛県出身。松山商業高校、松山大学を経て三井海上(現・三井住友海上)に入社。オリンピックは2004年アテネ(5位入賞)、2008年北京(途中棄権)と2大会連続で出場。世界陸上にも2001年エドモントン、2007年大阪と2度出場し、共にメダル(銀、銅)を獲得。現役時代に出場したマラソン15大会のうち12大会で5位以内(優勝3回)と抜群の安定感を誇った。自己最高記録は2時間22分46秒(2002年ロンドン)。
著者プロフィール
佐藤 俊 (さとう・しゅん)
1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。近著に「箱根5区」(徳間書店)。
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