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オリンピック2大会連続出場の土佐礼子は「高校生よりも遅い自分が生きる道」とマラソンを選んだ (2ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

【アテネ五輪の代表選考は最後の1枠を巡って紛糾】

 だが、そのいい流れは故障によって寸断されてしまった。

2002年9月にスーパー陸上の5000mに出た時、転倒しそうになったのをかばって足を踏ん張ったんです。最初は捻挫かなと思ったんですが、剥離骨折で、しかも、かかとも痛めていて......。そこからバランスを崩し、ケガが治ってもまたケガをする悪循環で、(2004年の)名古屋国際女子マラソンに出るまでの約2年間、レースに出られず、気持ち的にとても厳しかったです」

 その2004年3月の名古屋国際女子マラソンは、アテネ五輪の選考レースに指定されていた。土佐はここぞの勝負強さを発揮し、2時間2357秒の好タイムで優勝した。

「この時は勝たなきゃいけないというよりも、選考レースに間に合ったことがうれしかったです。実は、(同年1月の)大阪国際女子マラソンに(チームメイトの)シブ(渋井陽子)が出たんですけど、その応援に行った時もまだ(思うように)走れていなかったんです。当時の練習日誌にも何も書いていなくて......。

 何かを書けば、以前の走れていた時と比べてしまいますし、いつもの練習よりも走れていない自分と向き合いたくなかったんです。もちろん、走れない時も体を動かすなど、復帰に向けた準備はしていたんですけど、名古屋は実質1カ月半で仕上げました。自分を支えてくれた皆さんのおかげで戻れたし、走れたという感じでした」

 アテネ五輪の代表選考は基準が不明瞭だったため、最後の1枠を巡って紛糾した。

 すでに2003年世界陸上パリ大会で銀メダルを獲得した野口みずき(グローバリー)が内定しており、残りの2枠を、前年11月の東京国際で2位の高橋尚子、2004年1月の大阪国際で優勝した坂本直子(天満屋)、そして、3月の名古屋国際を制した土佐の3人で争うことになり、シドニー五輪金メダルの実績を持つ高橋尚子を推す声は根強かったものの、対象レースでの順位とタイムで上回った坂本と土佐が選出された。

「(選考に関して)私はやることはやったので、結果を待つだけでしたし、決まった後は五輪に向けてやるだけだなと思っていました。そして、そのアテネ五輪の前はケガに注意して慎重に練習をこなしていましたし、質量ともにしっかりできていました。ただ、本番にピークに持っていくのがすごく難しくて......。調整は順調でしたが、ピークがピタっと合ったという感じではなかったですね」

 アテネ五輪のマラソンコースは試走を2回行なっていた。1回目は、まだマラソン代表が決まる前、前年の世界選手権パリ大会を応援したあと、同僚の渋井と現地に行った。しかし、疲れで眠くてほとんど走れず、「何をしに行ったんだ?(苦笑)」という状況だった。2回目は前半、後半と2日間に分けてコースをしっかりと確認した。道路の舗装がガタガタでレース本番までに仕上げが間に合うのかと心配になったという。

「アップダウンの多いコースを見て、監督からは『おまえのコースだな』と言われたのは、覚えています」

 本番前日、鈴木監督からはレース展開についての話は特になく、いつもどおり、おまえにまかせるという感じだった。土佐自身も、他の出場選手の情報を入れないようにしていた。速い選手のことを知ると「怖い」と感じてしまう。土佐は自分のことだけに集中した。

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