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小説『アイスリンクの導き』第19話 「10年後の翔平へ」 (4ページ目)

 指導者としては、翔平が奇跡を生み出すサイクルに翔平が入るように工夫はしてきた。まず、練習はボロボロになるほど追い込む。泥臭く氷の上を這うようだって、美しくなくたって構わない。プログラムをマストで滑る間、ディテールにこだわる。細かく部分、部分で区切って曲をかけ、「そこまで執拗に練習する必要があるか」というところまで追い込む。「これ以上、できない」と翔平が悲鳴を上げるまで、一回、突き落とす。

 そこから上がってくるときに、真価は出る。博打にも勝てる。

 スケートが好きだからこそ、翔平はそのサイクルに耐えられて、結果を残せたのだ。

 やはり、翔平は輝く勝利者である。

 いや、そうではないか。

 波多野は思う。

 私は、一心不乱に氷の上で踊っている姿が好きなだけなのかもしれない。たとえ勝たなくたって、それで心は満たされる。これぞ追い求めてきたフィギュアスケートだと胸を張れる領域にまで、一緒に連れて行ってくれる。

「体の細胞が全部、曲に反応しているわ!」

 ぞくぞくするほど興奮したものだ。指導者として褒められたことではないが、勝敗やタイトルよりも、その一瞬にこそ、価値を感じた。永遠の一瞬だ。

 そこで、ふと考えつく。

 翔平への手紙はすでに一通、心を込めてしたためてあって、清書をして封筒に収めていた。自分がこの世界から去ったら、読んでくれるだろう。しかし生来の悪戯っ気が出て、サプライズを思いついた。

〈10年後の翔平へ、というメッセージを残す〉

 痛みを止めるための投薬で、すでに意識が途切れる時間も出てきている。病気は進行し、一度は手術を試みたが、手がつけられない状態だった。薬物療法にも挑んだが、あまりに負担が大きく、死ぬほどの思いをした。しかし、結果は思わしくない。手詰まりの状態になって、痛みを散らしながら、日々を重ねていた。

 容態が悪くなっているのは、自分の体だからよくわかった。今のうちに下書きをしたため、最後の力を振り絞って清書しよう。残された時間、最後まで自分の命を燃やし尽くそう、と気持ちを奮い立たせた。

 昔から、思い立ったが吉日だ。

 電動ベッドの背中の辺りの角度を上げ、体を起こしてテーブルを引き寄せた。引き出しからメモ帳を兼ねたダイアリーを取り出し、翔平が誕生日にくれたボールペンを手に持った。準備は整ったし、構想はすでにあったが、書き出しに迷う。すでに一通、手紙を書いているだけに、同じでは芸がない。我が子のように大事な翔平のために残す一通なのだ。

 見渡すと、部屋の中はガランとして静かだった。夫に「気を遣わなくていい、大部屋でいいよ、値段も高いんだから」と伝えたが、個室を用意してくれていた。遠くで、誰かの声が聞こえる。夕暮れ時、面会時間の最後に滑り込んだのだろうか、華やいだ声だった。

 窓からは空が見えた。夕焼けで本当に真っ赤だった。太陽が高い位置にある昼間は、青い色の光が散らばる。夕方になって太陽が低くなると、光が地球上の大気の層を通る距離が長くなり、散乱されにくい赤い色が残る。赤が一番遠くまで届く色なのだという。最後に残る色、とも言える。自分たちが感じる夕暮れのノスタルジーは感覚的なものだが、実は科学的に実証されているのだ。

 波多野は、ゆっくりとボールペンを走らせた。

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