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小説『アイスリンクの導き』第19話 「10年後の翔平へ」 (3ページ目)

 フィギュアスケーターにとって、フィジカルは絶対的な資質ではない。

「何があっても、スケートを好きでいられるか」

 それこそ、時代が変わっても同じく一番に求められる資質と言える。結局のところ、本人がコツコツと練習を積み重ねるしかない。スケートに対する一途さが試される。

 その結実として、踊りやうまさが問われる。

 そもそも、ジャンプは「跳べない」という先入観が強いと、どんなジャンプもうまく跳べない。跳べない、と言われているジャンプが、一人跳ぶことで、どんどん跳べるようになる現象は、跳べない、というネガティブな思いに下に引き込まれるのではなく、跳べるかもしれない、というポジティブな思いに上へと引っ張られるからだ。

 指導者として、そうした論理で男性選手を教えてきた。全日本ジュニアで優勝するような選手もいたし、全日本に出場選手がいて、全力を尽くしてきたつもりだった。しかし教えられない領域があって、そこにジレンマも抱えていた。

 翔平は、その論理を超えたスケーターだった。

 彼は中学に入るか入らないかで、「自分はどういうスケーターになりたいか」をはっきりとイメージできていた。スケーティングへのこだわりは、過去に指導してきた選手と比べると段違いだった。たとえば体が硬くても柔らかく見せられるように、自分が理想とするスケートをイメージしながら、とことんトレーニングし、それに近づいていったのだ。

 指導者としてセンスという言葉を使うのは、あまり好ましくないと思っている。しかし、どうしても才能の部分はある。たとえば体の使い方や足の運び方は、半ば生来的なものだ。

「ちょっとこんな感じで滑って」

 さりげなく振り付けをしてみせた後、すぐに感覚を掴めるのはセンスである。いちいち手と腕をここに持ってきて、と教えなくてもできる。

 翔平は非現実的な異能も持っていた。ずっと跳べなかったジャンプを、もしかしたら今日は跳べるかもしれないと思いながら日々を過ごしてきて、"大事な競技会の日に、それがドンピシャで当たる"。あり得ない話のようだが、それが起こった。ほとんど、漫画やドラマの世界だ。

「奇跡を信じられる」

 その博打性も、翔平の本当の魅力だった。指導者としては、能力の足りなさに頭を抱えるしかない。しかし、奇跡に懸けたくなってしまう。

〈翔平にチャレンジさせたら、本番でパチンとうまくいく〉

 そう思わせるだけの博打師の気配を彼は持っている。ここぞ、の勝負運というのか。

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