小説『アイスリンクの導き』第6話 「メンタルトレーニング」

『氷上のフェニックス』(小宮良之:著/KADOKAWA)の続編、連載第6話

 岡山で生まれた星野翔平が、幼馴染の福山凌太と切磋琢磨しながら、さまざまな人と出会い、フィギュアスケートを通して成長する物語。恩師である波多野ゆかりとの出会いと別れ、そして膝のケガで追い込まれながら、悲しみもつらさも乗り越えてリンクに立った先にあるものとは――。

 今回の小説連載では、主人公である星野がすでに現役引退後の日々を送っている。膝のケガでリンクを去る決意をしたわけだが、実はくすぶる思いを抱えていた。幼馴染の凌太や橋本結菜と再会する中、心に湧きあがってきた思い...。

「氷の導きがあらんことを」

 再び動き出す、ひとりのフィギュアスケーターの軌跡を辿る。
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第6話 メンタルトレーニング

 夏の匂いが濃厚に感じられるようになっていた。フィギュアスケートのシーズン前哨戦が、各地で活発に行われる季節だ。

 星野翔平は神戸で行われる大会を、再デビュー戦に設定していた。

 その仕上げに、都内で心理カウンセリングを受けることになった。リンクに立ったフィギュアスケーターは、たった一人ですべての注目を浴びる。その心理的ストレスは尋常ではない。他のスポーツでもメンタル面の取り組みが叫ばれている中、もっと脚光を浴びてもよかった。

「復帰、おめでとう。また新しいことをやってのけるんだね」

 メンタルトレーナーの夏八木廣は、そう言って翔平を歓迎してくれた。

「現役引退以来、ご無沙汰しています」

 初めて出場したモスクワ五輪後からの付き合いで、膝のケガで苦しんでいた時も心強いカウンセリングを受け、とても頼りにしていた。現役復帰を電話で伝えた時、重低音の温かみのある声に励まされる思いだった。

 夏八木は名優モーガン・フリーマンを思わせる、佇まいだけで雰囲気を醸し出すようなところがあった。何気ない仕草に味がある。低い声に渋みが混ざったリズムは、不思議なほど気持ちを落ち着かせた。

 カウンセリングの部屋は1年前にリフォームしたらしく、白い壁に囲まれた部屋に薄いグレーの三人がけソファと紺色の一人用ソファ、真ん中には木製のテーブルが置かれ、足元には薄いグレーのフロアマットが敷かれていた。パキラのプランターが一つ、隅っこには間接照明が灯され、ウッドブラインドの隙間から木漏れ日が入って、温かみを感じさせる空間だった。

「私の仕事は変わらない。君の話を聞くことだ」

「はい」

「でも、長い付き合いだから言わせてもらう。期待と不安の両方で少しパンクしかけているね」

 夏八木は心中を見透かすように言った。あまりにそのとおりで、少し驚いた。カウンセリングに来ているくらいだから、メンタル強化目的はわかり切っていたが、両極端の気持ちに押し潰されそうだった。

「先生はお見通しですね」

「人間の気持ちは、そんな簡単な構造じゃないから。強い決心をした場合、それだけの負荷もかかる。巨大なプラスとマイナスが両方発生するんだよ。だから、何も新しいことに挑戦しない人の方が心理的なダメージも少ない。ただ、それは潜在的にそうした強い不可に耐えられないことを予感しているから、踏み切れないんだよ。心は輪廻のように行動とつながっているんだ」

 夏八木の言葉は、現役復帰を決心した翔平の気持ちにすっと入ってきた。短く切りそろえた髪やひげには白いものが多くなったが、声の艶はむしろ増したようだった。

「『心は鋼鉄ではない、または鋼鉄であってはならない』って夏八木さんはいつもおっしゃっていますもんね」

「そう、柔らかくて、ぐにゃりと曲がる。ゴムみたいなのが理想だよ。だからこそ元に戻るし、ぐっと伸びて縮んでパワーも生み出す。鋼鉄の棒は強そうだが、ぽきりと折れたら元に戻すのは難しい。翔平君が不安に感じるのは、むしろ健全なんだよ。それだけ心に負荷がかかっているし、そうでなかったら、現役復帰なんて成し遂げられないんだろう」

 夏八木は優しい声音で言った。

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著者プロフィール

  • 小宮良之

    小宮良之 (こみやよしゆき)

    スポーツライター。1972年生まれ、横浜出身。大学卒業後にバルセロナに渡り、スポーツライターに。語学力を駆使して五輪、W杯を現地取材後、06年に帰国。著書は20冊以上で『導かれし者』(角川文庫)、『アンチ・ドロップアウト』(集英社)など。『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家デビューし、2020年12月には『氷上のフェニックス』(角川文庫)を刊行。パリ五輪ではバレーボールを中心に取材。

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