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【プロレス連載】越中詩郎の禁断の新日本移籍にジャイアント馬場はどう反応した?「侍戦士」と同級生の元東スポ記者が裏側を明かす

  • 大楽聡詞●取材・文 text by Dairaku Satoshi

プロレス解説者 柴田惣一の「プロレスタイムリープ」(21)

(連載20:スタン・ハンセンのリング内外の顔 長州力にラリアートを不意打ちした秘話も明かす>>)

 1982年に東京スポーツ新聞社(東スポ)に入社後、40年以上にわたってプロレス取材を続けている柴田惣一氏。テレビ朝日のプロレス中継番組『ワールドプロレスリング』では全国のプロレスファンに向けて、取材力を駆使したレスラー情報を発信した。

 そんな柴田氏が、選りすぐりのプロレスエピソードを披露。連載の第21回は、新日本プロレスと全日本プロレスの両団体で活躍した"侍戦士"越中詩郎。特に髙田延彦とのジュニアヘビー級タイトルマッチは、ファンのなかで「ジュニア版名勝負数え唄」として語り継がれている。そんな越中の若手時代と、プロレス界震撼の移籍劇について柴田氏が語る。

越中(左)と同級生で、若手時代から仲がよかったという柴田氏(写真/柴田氏提供)越中(左)と同級生で、若手時代から仲がよかったという柴田氏(写真/柴田氏提供)この記事に関連する写真を見る

【同級生としての奇妙な縁】

――柴田さんと越中詩郎選手の出会いについて教えてください。

柴田惣一(以下、柴田):私が東京スポーツの記者として働き始めたのは1982年で、越中選手は全日本プロレスの若手でした。彼とは同い年で、越中選手が1958年9月4日生まれ、私が同年9月11日生まれと、わずか1週間しか違わないんです。不思議な縁を感じましたね。

――プロレスラーになる前の越中選手はどのような経歴だったんですか?

柴田:彼は高校を卒業後、東京電力の関連会社に就職して、電気関係の仕事で電柱に登っていたそうです。しかし、どうしてもプロレスへの夢を諦めきれず、2年ほど勤めた後に全日本プロレスの門を叩きました。

――高校時代の野球部の監督から、レスリング部の監督を通じてジャイアント馬場さんを紹介してもらい、1978年7月に入門したそうですね。

柴田:野球部ではキャッチャーをやっていて、強豪校ではなかったので甲子園には出られなかったようですね。プロレスの世界に飛び込むレスラーは、高校を卒業してすぐに道場に入るケースが多いですが、越中選手は会社員を経験した。そのおかげで、一般常識や人とのつき合い方、会話の距離感などが身についていて、私のような若手記者とも気兼ねなくつき合ってくれました。若造同士で話が合い、自然と仲よくなりましたね。

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