【プロレス】アントニオ猪木がパキスタンで油まみれの男と対戦 藤原喜明が振り返る猪木の強運 (4ページ目)
【超苛酷だった西ドイツ遠征】
藤原がそう表現するように、当時の猪木は「博打」とも言える闘いを繰り返した。ペールワンを敵地で倒した2年後、1978年11月には西ドイツ(現・ドイツ)へ遠征した。プロモーターでレスラーだったローラン・ボックからの招へいで、22日間で20試合という過酷なスケジュールで闘った。
レスラーに転向したウィレム・ルスカらも参戦したこの遠征に、藤原も帯同した。
「移動がキツかったな。猪木さんとルスカは、飛行機とかベンツのハイヤーで移動してホテルに宿泊していたんだけど、俺ら若手はホテルなしで、寝台バスで移動だった。試合が終わると、次の試合場所まで1000キロを走ることもあってな。猪木さんの服とかを洗濯をして、バスで干してたことを思い出すよ」
レスリングで1968年のメキシコ五輪に出場した経歴を持つボックだが、当時はまだ来日したことがなく、日本マット界では「まだ見ぬ強豪」だった。藤原は遠征中に、身長196cm、体重125kgという巨体だったボックとスパーリングを行なったという。
「スパーでボックは、俺の周りをクルクル回ってきたんだ。『何をやっているんだ?』って思ったんだけど、彼はアマチュアレスラーだから、俺を倒してフォールを狙いにきてたんだな。
そこで俺は彼の足首をとったんだけど、骨がゴキッといきそうになった。そうしたらボックが『ちょっと待って。こっちのヒザ、悪いから』って言ってストップしたんだ。俺は勝ったと思ったよ。パワーもテクニックもすごかったけど、俺に言わせればアマチュアだったな」
猪木は、遠征中にボックと3試合(4分10ラウンド制)を闘い、シュツットガルトでの3戦目は判定で敗れた。その一戦は日本でもテレビ中継され、無名の外国人に猪木が敗れたことから「シュツットガルトの惨劇」と呼ばれるなど、現在も語り継がれている。
「あぁ、そんな結果だったな。ルールも何も聞いてなかったし、審判なんてどこにも見当たらなかった。ハメられたようなものさ。あの遠征はリングもひどくてな。板の上に木くずを敷いたマットだったんだよ。3試合くらいやるとデコボコになるから、そこで受け身取ったら......どんなにひどいことになるか、わかるだろ?」
ペールワン、ボックとの海外遠征のすべてに帯同した藤原は、その後、人生の師と呼ぶ人物から関節技を学ぶことになる。
(敬称略)
■連載8を読む:藤原喜明が語る「プロレスの神様」カール・ゴッチのすごさ アメリカでの直接指導が「関節技の鬼」のベースを作った>>
【プロフィール】
藤原喜明(ふじわら・よしあき)
1949年4月27日生まれ、岩手県出身。1972年11月2日に23歳で新日本プロレスに入門し、その10日後に藤波辰巳戦でデビュー。カール・ゴッチに師事し、サブミッションレスリングに傾倒したことから「関節技の鬼」として知られる。1991年には藤原組を旗揚げ。現在も現役レスラーとして活躍するほか、俳優やナレーター、声優などでも活動している。陶芸、盆栽、イラストなど特技も多彩。
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