日本ボクシング世界王者列伝:内藤大助 不屈のキャリアと変則戦法がライバル対決で「記憶に残る世界王者」に昇華
多彩な戦いぶりとライバル関係で記憶に残る王者となった内藤大助 photo by Reuters/AFLO
井上尚弥・中谷潤人へとつながる日本リングのDNAたち21:内藤大助
もし、運命的なライバルとの出会いがなければ、記憶に残る世界チャンピオンとしての内藤大助(宮田)はなかったかもしれない。「変則戦法を操るおもしろいボクサーだったけど、どこか地味な印象は拭えない」。口さがないファンや批評家に、そんなひと言で総括されていたのだろうか。内藤は「vs.亀田家」という構図があって、初めて大きく輝いた。本人が望もうと、望むまいと、それも一面の真実であったことに誰も異存はあるまい。(文中敬称略)
【KO負けからの懸命の登攀開始】
格闘技の殿堂、東京・水道橋の後楽園ホール。ビル5階にあるリング常設のこのホール、入り口からアリーナ部へ向かう東西2本の通路脇にはズラリと試合予告のポスターが並んでいる。2002年の夏のこと、ぶらぶらとリングサイドに向かって歩きながら、あまり変わり映えのしない絵柄の一つひとつを見ていて、一瞬、ぎょっとして立ち止まった。そこにはひとりのボクサーが長々と寝そべり、レフェリーに顔をのぞき込まれている絵図があった。
倒れていたのは内藤大助である。同年4月19日、タイに遠征してWBC世界フライ級王座に挑み、チャンピオンのポンサクレック・ウォンジョンカムにわずか34秒、失神ノックアウトに敗れたときのもの。そのポスターのキャッチには『THE GREAT RESURRECTION(偉大なる復活)』と但し書きもあった。
多くの人の感覚なら、まさかまさかのアピールである。拳ひとつでより強い男を決める。そんな男伊達(おとこだて)の極地にあるプロボクサーが、なんということか、真底の弱みを見せて自らの次戦の告知をする。なかなか考えにくいことだった。
だが、この男の思考回路は、常にそうだったのかもしれない。父のいない家庭に育ったという出自を隠したことはない。中学生のころ、体を壊しかけるほどのイジメにあった。あまり明かしたくないと考えたがるそんな過去も、平気で口にしていた。もしかすると、その内奥には不屈の負けじ魂があったのだろうか。
「どんな恥辱にまみれても、オレは這い上がってみせる」
ひねたようでも、どこまでも純な向上心。それこそがボクサー・内藤を、まずはひとかどの成功へと導いたことは、もう間違いない。
世界初挑戦の失敗から2年かけて日本チャンピオンになった。さらに2年後、東洋太平洋の王座を奪うが、その間に宿敵ポンサクレックにあらためて挑んだ一戦は負傷判定負けで涙を呑んだ。そんな悔しい下積みの末、33歳を目の前にしてようやく世界への宿願がかなうのは2007年7月18日、後楽園ホールだった。17度防衛の大記録を作っていたタイの偉大なサウスポー、ポンサクレックとの3度目の対決に判定勝ちを収め、ベルトを腰に巻いた。
著者プロフィール
宮崎正博 (みやざき・まさひろ)
20歳代にボクシングの取材を開始。1984年にベースボールマガジン社に入社、ボクシング・マガジン編集部に配属された。その後、フリーに転身し、野球など多数のスポーツを取材、CSボクシング番組の解説もつとめる。2005年にボクシング・マガジンに復帰し、編集長を経て、再びフリーランスに。現在は郷里の山口県に在住。

