関根潤三が川崎憲次郎に施した「英才教育」 試合を捨てる覚悟でプロ初先発のマウンドに送った (4ページ目)

  • 長谷川晶一●文 text by Hasegawa Shoichi

 べた褒めである。その結果、関根は腹心である小谷正勝ピッチングコーチと相談のうえ、「二軍ではなく、常に一軍に置こう」と決意したのである。だからこそ、海外キャンプにも帯同させ、「開幕一軍」の切符を期待の新人に託した。川崎は言う。

「やっぱり、関根さんなりの英才教育だったんだと思います。投げなくてもいいから、一軍の雰囲気を感じること。先輩たちの会話を聞くこと。『ちゃんと見ておけよ、聞いておけよ』という意味だったと思います。岡のほうを最初に一軍デビューさせたのも、もしかしたら僕の闘志を掻き立てるための戦略だったのかもしれないですね」

 そして、川崎は言った。

「何としてでも川崎を育てる。そんな覚悟が関根さんにはあったのかもしれません。本当にありがたいことです......」

 ルーキーイヤーとなった89年、川崎は23試合に登板している。そのうち先発で13試合を投げて4勝4敗1セーブ、防御率3.94を記録。9月24日のジャイアンツ戦では、プロ初完投、初完封勝利も飾った。チームは4位に沈んだが、川崎にとっては貴重な経験を積むこととなった。関根も手応えを感じていた。前掲書にはこんな記述がある。

 この年、いきなり四勝四敗一セーブを記録した。これは、ありきたりな言い方をすれば、「川崎英才教育」の成果であった。

 そして、この年を最後に関根はスワローズを去る。後任は野村克也である。こうして、川崎と関根の関係はわずか1年で終焉のときを迎えることになったのである──。

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関根潤三(せきね・じゅんぞう)/1927年3月15日、東京都生まれ。旧制日大三中から法政大へ進み、1年からエースとして79試合に登板。東京六大学リーグ歴代5位の通算41勝を挙げた。50年に近鉄に入り、投手として通算65勝をマーク。その後は打者に転向して通算1137安打を放った。65年に巨人へ移籍し、この年限りで引退。広島、巨人のコーチを経て、82〜84年に大洋(現DeNA)、87〜89年にヤクルトの監督を務めた。監督通算は780試合で331勝408敗41分。退任後は野球解説者として活躍し、穏やかな語り口が親しまれた。03年度に野球殿堂入りした。20年4月、93歳でこの世を去った。


川崎憲次郎(かわさき・けんじろう)/1971年1月8日、大分県生まれ。津久見高から88年ドラフト1位でヤクルトに入団。1年目から4勝を挙げ、2年目には12勝をマーク。プロ5年目の93年には14勝を挙げリーグ優勝に貢献。日本シリーズでもMVPに輝くなど、15年ぶり日本一の立役者となった。98年には最多勝、沢村賞のタイトルを受賞。01年にFAで中日に移籍するも、右肩痛のため3年間登板なし。移籍4年目は開幕投手に抜擢されるも成績を残せず、04年限りで現役を引退した。12、13年はロッテの投手コーチを務めた。現在は解説をはじめ、さまざまなジャンルで活躍している。

著者プロフィール

  • 長谷川晶一

    長谷川晶一 (はせがわ・しょういち)

    1970年5月13日生まれ。早稲田大学商学部卒。出版社勤務を経て2003年にノンフィクションライターとなり、主に野球を中心に活動を続ける。05年よりプロ野球12球団すべてのファンクラブに入会し続ける、世界でただひとりの「12球団ファンクラブ評論家(R)」。主な著書に、『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間 完全版』(双葉文庫)、『基本は、真っ直ぐ──石川雅規42歳の肖像』(ベースボール・マガジン社)、『いつも、気づけば神宮に 東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」』(集英社)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)、『名将前夜 生涯一監督・野村克也の原点』(KADOKAWA)ほか多数。近刊は『大阪偕星学園キムチ部 素人高校生が漬物で全国制覇した成長の記録』(KADOKAWA)。日本文藝家協会会員。

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