関根潤三が川崎憲次郎に施した「英才教育」 試合を捨てる覚悟でプロ初先発のマウンドに送った (2ページ目)

  • 長谷川晶一●文 text by Hasegawa Shoichi

 高校の卒業式の関係で、一軍合流は遅れてしまった。しかし、関根は川崎のマウイキャンプ入りに強硬にこだわったという。大分から上京して、右も左もわからぬままの川崎にとってのプロ野球人生は、こうして始まった。

【ついにプロ初登板のチャンス】

 プロ1年目、忘れられないことがある。春季キャンプ、オープン戦と続くなか、川崎は常に一軍とともに多くの時間を過ごすことになった。

「結局、開幕一軍メンバー入りも果たしました。でも、実際はオープン戦でも、そこまで結果を残せたわけではないんです。開幕してからもベンチ入りさせてもらったけど、1カ月間ずっと投げさせてもらえませんでした。もちろん、ファームでは投げているんですけど、《下で投げて、上で投げない》という生活がずっと続きました」

 この時、川崎の同期であり、高知商業高校からドラフト2位で入団した岡幸俊も、川崎同様、一軍帯同の日々を過ごしていた。しかし、川崎から見れば、それは決して「同様の日々」ではなかった。

「岡も、基本的には《下で投げて、上で投げない》んですけど、彼の場合はすでに開幕戦でプロ初登板を果たしているんです。ハッキリ言えば、岡のほうが期待されていたし、僕よりも扱いはよかった気がします。内心では、『何で岡が先なんだよ』とか、『何で岡ばかりかわいがっているんだよ』という思いは正直ありましたね......」

 岡のプロ初登板は、89(平成元)年4月8日、東京ドームでの対読売ジャイアンツ戦。8回裏二死から5番手として登板して、中尾孝義から三振を奪っている。同期の岡に先を越され、川崎の胸の内にはジリジリとした焦燥感が芽生えていた。

「開幕してからも、何度かプロ初登板のチャンスはあったんです。『おい川崎、ちょっと準備しておけ』と言われて、ブルペンで肩をつくるんですけど、試合展開もあって出番はなかった。そのたびに、『早く投げたいな』という思いは募っていきましたね」

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