ブラジルW杯で青山敏弘が長谷部誠に指摘された「もっと落ち着いてプレーできるだろ」の意味
引退インタビュー
青山敏弘(サンフレッチェ広島)中編
◆青山敏弘・前編>>プロの壁、ミシャとの出会い、そして生涯忘れることのない悔しさ
J2でスタイルを築き上げたサンフレッチェ広島は翌2009年、復帰したJ1でも快進撃を続ける。青山敏弘もチームの"エンジン"として躍動し、リーグ屈指のボランチとして存在感を放った。しかし、シーズン終盤にまたしても負傷してしまう。このケガが厄介だった。
「2009年はすごくよかったんですよ。けど、最後にケガをしちゃって。左ひざの半月板だったんですけど、負荷がかかっていたんでしょうね」
およそ5カ月のリハビリを経て、翌シーズンに復帰した青山だったが、復帰戦で同じ箇所を負傷してしまう。さらに翌年にも再発し、復帰と離脱を繰り返した。
青山敏弘が先発したブラジルW杯のコロンビア戦 photo by AFLOこの記事に関連する写真を見る「最初の時点で、ひざが今までのように曲がらなくなったんです。そういうものになっちゃったんでしょうね。負荷がかかる箇所なのでしょうがないですけど、何度も繰り返したのは本当にきつかった。チームががんばっているなかで、そこに自分がいられなかったのはすごくつらかったですね。
だから、2010年は自分が何をやったかあまり覚えてないし、2011年も身体がフィットしきれず、全然パフォーマンスが上がらなかった。どうやったらトップパフォーマンスに戻せるのか。それがイメージできなかったし、何をしていいのかわからない状態でした」
復活への道筋が見えないなか、青山はメンタル的にも追い込まれていたという。そんな時に救いとなったのは、やはりミシャの存在だった。
「本当にきつかった時に、ミシャと話したんです。ケガばかりしているから、たぶんみんなからも信頼されてないと思うって言ったんですよ。でも、ミシャは、そんなことないよって。みんなアオのことは信頼しているから、しっかりリハビリをがんばって戻っておいでって。絶対に大丈夫だからって。その時は涙が出ましたよ。練習場で泣きましたね」
2006年から広島の指揮を執ったミシャは、2011年にクラブを去ることになる。ちょうど青山が苦しんでいた時期だ。だから、青山には後悔がある。
「辞めると聞いた時は、ショックでしたよ。もう1回、勝負したかったんですよ。もう1回、自分のトップパフォーマンスで勝負したかった。それができなかったし、一番期待してくれていたので、それに応えられなかったのは心残りではありますね」
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著者プロフィール
原山裕平 (はらやま・ゆうへい)
スポーツライター。1976年生まれ、静岡県出身。2002年から『週刊サッカーダイジェスト』編集部に所属し、セレッソ大阪、浦和レッズ、サンフレッチェ広島、日本代表などを担当。2015年よりフリーランスに転身。