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渡辺久信は運命の一戦でブライアントに痛恨の被弾 森祇晶監督の叱責にグラブを投げつけブチ切れた

  • 飯尾哲司●文 text by Iio Tetsuji

渡辺久信インタビュー(前編)

 高校時代、甲子園のマウンドで147キロを記録して注目を集め、西武にドラフト1位で入団した渡辺久信氏。プロ入り後は若くして頭角を現し、ノーヒット・ノーランや投手三冠に輝くなど西武黄金時代の一翼を担った一方で、球史に残る一戦での被弾など、数々の名シーンを残してきた。そんな渡辺氏にあらためてプロ野球人生を振り返ってもらった。

1989年10月12日、近鉄とのダブルヘッダー1戦目にブライアントに勝ち越し本塁打を浴びた渡辺久信 photo by Sankei Visual1989年10月12日、近鉄とのダブルヘッダー1戦目にブライアントに勝ち越し本塁打を浴びた渡辺久信 photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る

【プロ3年目に投手三冠を達成】

── 渡辺さんがプロを現実のものとして意識したのはいつですか?

渡辺 高校1年生の時、夏の甲子園に出場して147キロを記録しました。その後は少し伸び悩んだのですが、高校3年の春、関東大会で148キロを出して優勝。一気に注目を集めるようになりました。プロを意識し始めたのは、その頃です。

 前橋工業高校出身のプロ野球選手といえば、阪神で活躍した野手の佐野仙好さんくらいで、それも10年前のことでした。だから、参考になるような選手もいなかったですし、基準がわかりませんでした。それでも全12球団のスカウトが視察に来てくれて、なかには複数回足を運んでくれる球団もあり、「上位で指名されるかもしれない」と感じました。

── 高野光投手(東海大→ヤクルト入団)の外れとはいえ、1位での入団です。

渡辺 自分も後にGMを務めたのでわかるのですが、当時の私は「100か0」のタイプ。つまり賭けのような存在だったと思います。ただ、普通はそういう将来性を期待するタイプの選手は4位くらいで指名されるものですよね。

── プロで通用するという自信をつかんだきっかけは?

渡辺 プロ2年目、最初は「敗戦処理」からスタートし、次に「勝ち試合のリリーフ」、その後「先発」となって4勝を挙げ、最終的には「ストッパー」にも起用されました。広岡達朗監督の指示でした。結果として43試合に登板し、8勝11セーブ。投手のすべてのポジションを経験できたことが、プロ3年目(1986年)の「最多勝」「最多奪三振」「最高勝率」獲得につながったのだと思います。

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著者プロフィール

  • 飯尾哲司

    飯尾哲司 (いいお・てつじ)

    静岡県生まれ。『週刊ベースボール』編集部出身。野村克也氏『私の教え子ベストナイン』『リーダーとして覚えておいてほしいこと』、元横浜高野球部長・小倉清一郎氏『小倉ノート』をはじめ、書籍の企画・取材・著書多数。プロ野球現場取材歴35年。早稲田大学大学院修士課程修了。学術論文「エリートアスリートはなぜセカンドキャリアで教員を選択したのか:プロ野球選手とJリーガーの事例をもとに」(スポーツ産業学研究, Vol.33, No.1, p.63-73,2023.)

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