渡辺久信は運命の一戦でブライアントに痛恨の被弾 森祇晶監督の叱責にグラブを投げつけブチ切れた (3ページ目)
── その年のブライアント選手に対しては、打率.222と抑えていましたよね。
渡辺 はい。私は前々日に131球を完投していましたが、「ブライアント封じ」のために登板しました。低めのフォークも考えましたが、高めに浮いてレフトに持っていかれるリスクがあるので避けました。1ボール2ストライクから決め球に選んだのは、これまで何度も空振りを奪っていた高めのストレート。しかし、それをライトポール際に特大の48号。片膝をついて打球を見送る私の姿が、何度もニュースで流れました。
── 伊東勤捕手も「データどおりだから、決め球の選択は間違っていない。後悔はしていない」と話していました。
渡辺 伊東さんも「あの日のブライアントにはオーラがあった。普段は打てない球を打った。神がかっていた」と言っていました。
── 過去の名場面を振り返るスポーツ紙のコラムに、「ベンチに戻った渡辺投手は、森監督に『ナベ、なぜフォークを投げ投げなかったんだ』と問われ、思わずベンチにグラブを投げつけた」とありました。
渡辺 ええ、あの時は思わずブチ切れてしまいました(笑)。その後、私自身も監督を経験しましたので、監督の気持ちも理解できるのですが、ああいう場面で結果論を選手にぶつけるのはどうなのかな......という思いでした。
── 先程、印象に残るシーンとして、ブライアント選手に打たれた試合を挙げられましたが、勝った試合で思い出に残っているのは?
渡辺 プロ3年目、1986年の最終戦ですね。この年、最多勝、最高勝率のタイトルを僅差で争っていて、どうしても最終戦で1勝を挙げたかった。試合は途中までリードしていて、私は4回からリリーフ登板しました。しかし、打たれて逆転を許し、「このままでは黒星がついてしまう」と。
それでも9回表まで投げ抜き、その裏の攻撃を祈る気持ちで見ていました。すると、ルーキーだったキヨ(清原和博)が2点タイムリーを放ち、サヨナラ勝ち。この勝利で私は最多勝、最高勝率に加え、最多奪三振のタイトルも獲得し、「投手三冠」を達成しました。本当に大きな1勝でした。
渡辺久信(わたなべ・ひさのぶ)/1965年8月2日、群馬県出身。前橋工高から83年のドラフトで西武から1位指名を受け入団。2年目に8勝11セーブを挙げ、リーグ優勝に貢献。86年には最多勝、最高勝率、最多奪三振のタイトルを獲得するなど、西武黄金時代の中心投手として活躍。98年、ヤクルトへ移籍。99年から2001年は台湾・勇士隊で選手兼コーチとしてプレー。引退後は解説者を務め、04年から西武二軍コーチ、05年は二軍監督を兼任し、07年は二軍監督専任。08年に一軍監督に昇格し、就任1年目で日本一に導く。13年限りで退任し、シニアディレクターに。19年からGMとなり、昨年は5月28日から監督代行を兼任し、チームの指揮を執ったが、シーズン終了後に退団
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著者プロフィール
飯尾哲司 (いいお・てつじ)
静岡県生まれ。『週刊ベースボール』編集部出身。野村克也氏『私の教え子ベストナイン』『リーダーとして覚えておいてほしいこと』、元横浜高野球部長・小倉清一郎氏『小倉ノート』をはじめ、書籍の企画・取材・著書多数。プロ野球現場取材歴35年。早稲田大学大学院修士課程修了。学術論文「エリートアスリートはなぜセカンドキャリアで教員を選択したのか:プロ野球選手とJリーガーの事例をもとに」(スポーツ産業学研究, Vol.33, No.1, p.63-73,2023.)
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