渡辺久信は運命の一戦でブライアントに痛恨の被弾 森祇晶監督の叱責にグラブを投げつけブチ切れた (2ページ目)
── 西武は広岡監督のもと、1982年と1983年に日本一、1984年に3位、1985年にまたリーグ優勝を遂げ、1986年から森祇晶監督の体制になりました。
渡辺 当時は東尾修さんがエースとして君臨していましたが、高橋直樹さん、松沼博久さん、松沼雅之さん、森繁和さんらから、郭泰源さん、工藤公康さん、そして私といった若手への、まさに新旧交代の時期でした。
── ライバル意識を持ちながら、切磋琢磨していたのですね。
渡辺 いえ、じつはライバル意識はあまりなくて、郭泰源さん(4歳上)、工藤さん(2歳上)と、若手同士で刺激し合っていました。郭さんはレベルが違う投手でしたね。昔は先輩が後輩に技術を教えることは少なかったようですが、私は工藤さんから縦割れのカーブを教わりました。
【ノーヒット・ノーランは交通事故⁉︎】
── プロ7年目までに15勝以上は4回、最多勝を3度獲得しました。西武黄金時代のエースにおけるピッチングのポリシーは、「ストレートで押す」ですか?
渡辺 ストレートで押す投球は、投手として大きな魅力です。ただ、プロ4年目に肩を痛めてからは、フォークやスライダーを使い始めました。「エース」と呼んでいただけたのは、1989年や1990年に220イニング以上を投げ、ローテーションをしっかり守ったことが評価されたのだと思います。チームに貢献できたからこそ、そう呼ばれたのでしょう。
── 昨年のパ・リーグ最多投球回は有原航平(182回2/3・ソフトバンク)、セ・リーグは東克樹(183回・DeNA)でした。
渡辺 今の首脳陣からすれば、そういう投手は本当にありがたい存在でしょうね。
── 現役生活15年のなかで一番印象に残っている試合は、1996年のノーヒット・ノーランですか?
渡辺 いえ、あれは"交通事故"のようなもので......(苦笑)。それよりも一番印象に残っているのは、1989年10月12日、近鉄に逆転優勝を許してしまった試合です。ラルフ・ブライアントに、ダブルヘッダーで1日4本塁打。その1試合目に、私が3本目を打たれたんです。6回表、西武が5対1でリードしていたところで、郭泰源さんがブライアントに満塁本塁打を浴びて同点に。8回に私がリリーフとして登板しました。
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