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5球団競合の楽天ドラ1左腕を襲ったいきなりの悲劇「何を言われたのかわからないくらい、ボロクソに叩かれたことだけは覚えています」【2023年人気記事】 (4ページ目)

  • 田口元義●文 text by Taguchi Genki

【中継ぎとして日本シリーズでも登板】

「あの1年間があったから、次の年はちゃんと投げられたんですよ」

 2013年のシーズン序盤に復帰した長谷部は、中継ぎピッチャーとなった。コーチの高村と取り組んできた左ひざに負担のかからないピッチングフォームも、「上半身の力を使って、投げ下ろすイメージ」で腕を振ると、苦しんでいたそれまでより幾分マシに思えた。

 この年、長谷部は24試合に登板し10ホールド、防御率1.83。日本シリーズでも第4戦で登板し、球団初の日本一となるチームのピースとして機能した。それは、重傷を言い訳にせず、真摯に、愚直に食らいついてきた長谷部に訪れた、ちょっとしたご褒美だった。

「なんとか頑張れた1年でしたよね。すごくいい経験をさせてもらえてよかったです。でも、安心感はなかったですよ。次の年も同じような成績を残せるとは思ってなかったんで」

 2013年のパフォーマンスを実現させたフォームは、同時に左肩やヒジに負担が圧しかかる諸刃の剣でもあった。翌年も中継ぎとしてキャリア最多の26試合に登板し、防御率3.79と最低限の数字を残したものの、やはり体への負担は否めず、2015年には左ヒザの痛みまで再発してしまったのである。

 走ればヒザが腫れる。3週間に1回は膨れ上がった患部から水を抜き、痛みを緩和させ関節の動きを滑らかにすると言われるヒアルロン酸の注射を打つ。試合に投げても状態がよければストレートの最速は140キロ以上だったが、悪ければ125キロと、自分でも呆れるようなマウンドも日常的となっていた。

 長谷部は限界を悟った。

「そんな毎日でプロ野球選手をやってること自体がおかしいな、と。この時ってもう、自分がやれることをやり尽くしているんですよ。だから、楽天から『今年で最後です』って言われたら区切りをつけようって」

 2016年、楽天から戦力外を言い渡された長谷部は、すぐに引退を決断した。

 あの当時も今も「未練はない」と断言できる。ただ、どうしても引っかかる。もし、1年目のオープン戦でケガをしていなければ──そう問いかけると、長谷部は制止するように言葉をかぶせた。

「プロ野球選手って、そういうことも含めての実力なので。何かをきっかけによくもなるし、悪くもなるものだと思うんです。僕の場合、それがケガだったってことです」

 食らいつきました。やり切りました。清々しく話す長谷部の表情が、そう訴えかけてもいるようだった。

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著者プロフィール

  • 田口元義

    田口元義 (たぐち・げんき)

    1977年、福島県出身。元高校球児(3年間補欠)。雑誌編集者を経て、2003年からフリーライターとして活動する。雑誌やウェブサイトを中心に寄稿。著書に「負けてみろ。 聖光学院と斎藤智也の高校野球」(秀和システム刊)がある。

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