【高校野球】大阪の高校球界をザワつかせた異例の人事 履正社出身監督が名門・市岡の再建に挑む
三本線の誇り〜名門・市岡高校野球部が受け継ぐ伝統と挑戦(前編)
今年3月、大阪の高校野球関係者の間で、こんな噂が広がった。
「あの市岡高校野球部の監督に、履正社OBの教員が就任するらしい」
今年3月まで市岡野球部を率いた野口諭史氏 photo by Takeshi Shimizuこの記事に関連する写真を見る
【屈辱の敗戦が導いた指導者への道】
市岡は1901年、大阪市内3校目の府立中学として創立。野球部は1916年夏に準優勝するなど戦前の中等野球をけん引し、野球殿堂入りの佐伯達夫元高野連会長など偉大な多くの野球人を輩出した伝統校である。
夏の甲子園の地方大会に第1回大会から参加し続ける全国に15校ある"皆勤校"のひとつ。その名門に、大阪屈指の私学・履正社出身者がOB以外として監督を務めるとなれば、驚きの声が上がるのも当然だった。
「OB以外の監督は、過去にもいたと聞いています」
そう話すのは、今年3月まで8年間、市岡を率いた野口諭史さんだ。この春、旭高校へ異動した。
野口さんは中学2年だった1995年、市岡がセンバツに出場した姿を見て憧れた。三本線の帽子が印象に残り、「市岡で野球をやろう」と決めたという。
「うちらの代は弱かったです。それでも3年春はくじ運もあってベスト8まで勝ち進み、最後は大阪桐蔭に負けました」
だが、夏は屈辱を味わう。初戦で同じ公立校の桜宮に1対11の5回コールド負け。わずか1時間余りで高校野球は終わった。
「これでは終われへん。高校野球に取りつかれました」
恩師は故・河合孝監督。1980年から府立高校を渡り歩き、のちに育成功労賞を受けた名将だ。
「先生が市大(大阪市立大)出身だったので、自分も目指しました。でも、結局は二浪して、関西学院大へ進みました」
理工学部はキャンパスとグラウンドが離れ、二浪という事情も重なって野球部への入部は断念。数学教員を目指すことに進路を切り替えた。
教員採用試験は2度目で合格。布施北で3年間監督を務めたのち、港へ異動。そこで再び河合監督のもとで学ぶ。8年間在籍し、河合監督が退任後の2年間は自身が監督を務めた。そして2018年、母校・市岡へ戻ってきた。
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