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【高校野球】父はPL学園と死闘を演じた伝説のエース 市岡の背番号1を継いだ息子と父の物語

  • 清水岳志●文 text by Takeshi Shimizu

三本線の誇り〜名門・市岡高校野球部が受け継ぐ伝統と挑戦(後編)

 1994、95年の市岡は強かった。

「秋、春、夏とすべての大会で決勝まで勝ち進んだ府立校は、過去になかったんとちゃいますかね」

 そう語るのは、当時、市岡のエースでクリーンアップを担った井上雅文さん(現・浪速高校監督)だ。あの時から30年以上経っても、井上さんの記憶は鮮明だ。

市岡のエースとして甲子園に出場し、現在は浪速高校野球部の監督を務める井上雅文氏 photo by Takeshi Shimizu市岡のエースとして甲子園に出場し、現在は浪速高校野球部の監督を務める井上雅文氏 photo by Takeshi Shimizuこの記事に関連する写真を見る

【PLと死闘を繰り広げた伝説のエース】

「2年秋の大会では、準決勝で、のちに楽天の監督を務めた三木(肇)さんがいた上宮と当たるはずでした。上宮は最強と言われていたんですが、その上宮が浪速に負けたんです。うちは浪速に勝って、PLとの決勝になりました。ところが、4対14の完敗でした。あのショックはよく覚えています。力の差を見せつけられて、準優勝の喜びよりも『これじゃ、あかんな』という思いのほうが強かった。4番の福留(孝介)はとにかくすごかったし、1、2番の選手でもすごい打球を飛ばす。『なんじゃこりゃ』と思いましたね」

 それでも近畿大会で1勝を挙げ、PL学園とともに8年ぶりの選抜大会出場を決めた。秋以降は「PLを倒す」ことだけを目標に、猛練習を積んだ。選抜後の春季大会では準決勝でPL学園を破ると、決勝では大阪桐蔭も下し、大阪の頂点に立った。

 そして夏、決勝でPLと雌雄を決することになった。

「春は僕が先発ではなくリリーフで勝ったので、『そのパターンでいこう』ということになりました。先に点を取ってリードすれば、PLも焦るだろうと。でも、先制したのは向こうでした。一度は逆転したんですが追いつかれて、4対4の場面で僕が福留に打たれました」

 55年ぶりの夏の甲子園出場は果たせなかった。卒業後は立命館大へ進学し、打者として活躍。その後はアメリカのトライアウトに挑戦したり、日本の社会人クラブチームでプレー。26歳の時には横浜ベイスターズ(現・DeNA)の入団テストも受けた。「獲ってもいいが、二軍どまりかな」と言われ、将来を見つめ直した。

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