【高校野球】「甲子園は行きたいから行ける場所ではない」 全国制覇から33年、母校・育英を率いる安田聖寛が待つ"聖地からの迎え"
深紅の大優勝旗から33年〜育英、復活への挑戦(後編)
1993年8月23日。兵庫の伝統校である育英は、夏の甲子園大会決勝で春日部共栄(埼玉)と対峙した。地元・兵庫の代表として臨んだ決勝。聖地のスタンドは、8割以上が育英を応援するホームの空気に包まれていた。当時の主将で、現在は母校の監督を務める安田聖寛が大一番を回顧する。
1993年夏の甲子園で初優勝を決め、左脚を負傷した安田聖寛主将(左)を気遣いながら応援席に向かう育英ナイン photo by Kyodo Newsこの記事に関連する写真を見る
【決勝戦で襲ったまさかのアクシデント】
「前日まではリラックスしていたと思います。ただ、グラウンドに水が撒かれ、ラインが引かれたあたりから、絶対に兵庫へ優勝旗を持ち帰らなければならないという、ある種の使命感のようなものがありましたね。兵庫対埼玉のプライドのぶつかり合いだと捉えていました」
初回、育英は好スタートを切り2点を先制する。しかし、その後は春日部共栄の2年生左腕・土肥義弘(元西武など)の粘り強い投球の前に追加点を奪えず、じわじわと追い上げられる展開となった。
「初回に2点を取りましたが、ここで3点目が取れたと思うんです。最高のスタートなのですが、あと1点が取れなかったことを、選手たちが引きずっている感じはありました」
安田がアクシデントに見舞われたのは5回表、同点に追いつかれた直後の二死一、三塁の場面だ。一塁走者が盗塁を試み、二塁手としてベースカバーに入った際に左膝付近をスパイクされてしまう。
「タッチアウトにしてチェンジになり、ベンチに帰ろうとして立ち上がろうとしたら立てませんでした。脚を見て、『絶対に無理だ』と直感しました。ユニフォームは破れていないのに、中の皮膚がざっくりと裂けて血があふれ出ていたんです」
救護室に運ばれたが、傷口は深く、緊急でテーピングを巻く応急処置が施された。周囲からは交代を勧められたが、主将としての執念がそれを拒んだ。
「次の回、僕から始まる打順だったんです。『とにかく出ます』と言って、痛み止めを飲み、バッターボックスに立ちました。効くわけがないんですけどね(笑)」
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著者プロフィール
内田勝治 (うちだ・かつはる)
1979年9月10日、福岡県生まれ。東筑高校で96年夏の甲子園出場。立教大学では00年秋の東京六大学野球リーグ打撃ランク3位。スポーツニッポン新聞社でプロ野球担当記者(横浜、西武など)や整理記者を務めたのち独立。株式会社ウィンヒットを設立し、執筆業やスポーツウェブサイト運営、スポーツビジネス全般を行なう





















