PL学園時代の清原和博から3奪三振 西武・渡辺智男の「真っすぐ」のすごさを石毛宏典が語った
石毛宏典が語る黄金時代の西武(10)
渡辺智男 前編
(連載9:83試合で32本塁打「これはすごい選手が来た」西武黄金期のレジェンド助っ人・デストラーデ>>)
1980年代から1990年代にかけて黄金時代を築いた西武ライオンズ。同時期に在籍し、11度のリーグ優勝と8度の日本一を達成したチームリーダーの石毛宏典氏が、当時のチームメイトたちを振り返る。
前回のオレステス・デストラーデ氏に続く10人目は、黄金時代後期に先発ローテーションの一角を担った渡辺智男(わたなべ・とみお)氏。前編では西武入団当時の印象、渡辺氏の「真っすぐ」のすごさを物語るエピソードなどを聞いた。
1989年に西武に入団し、先発ローテの一角を担った渡辺智男この記事に関連する写真を見る
【ある審判員が、渡辺久信や工藤公康よりも高く評価】
――渡辺さんといえば、伊野商(高知)3年の1985年に、エースとして春のセンバツに出場(同校初の全国大会出場)して優勝。準決勝のPL学園戦では、後に西武で同僚となる清原和博さんから3三振を奪うなどして勝利投手になるなど、センセーショナルな活躍を見せました。
石毛宏典(以下:石毛) 当時、私は高校野球をあまり見ていなかったんです。だから智男が西武に入団した時は、キヨ(清原氏の愛称)から3つの三振を奪い、それが伝説として語り継がれているピッチャーだということを知りませんでした。
伊野商を卒業した後、社会人野球のNTT四国を経て西武に入った。社会人上がりなので本来であれば即戦力として期待するところですが、プロ入り前から肘を故障して手術していました。なのでルーキーイヤーは、開幕からローテーションに入ってシーズン序盤からどんどん投げていく、という雰囲気ではなかったんです。
――ただ、プロ入り1年目(1989年)の一軍初登板は6月2日のダイエー戦でしたが、出遅れながらも先発ローテーションに定着し、最終的には規定投球回にも到達して10勝7敗。キレがあるスライダーやカーブ、伸びのある真っすぐが印象的でした。
石毛 当時の西武にはナベちゃん(渡辺久信氏の愛称)、工藤(公康)、(郭)泰源といったレベルの高い先発ピッチャーが揃っていましたが、私は同じチームだから対戦する機会がないじゃないですか。他のチームの選手からは、「西武のバッターは、西武のピッチャーと対戦することがないからいいよね。対戦していたら(打率が)2分ぐらい下がるんじゃないの?」なんて言われたりもしました。
それで、シーズン中だったかシーズンオフのことだったか、審判員に「うちのピッチャーで誰が一番いい?」と聞いたことがあるんです。そうしたら、「一番すごいのは渡辺智男ですよ」と。先に挙げた3人のいずれかの名前を挙げると思っていたのですが、意外にも智男だったので「へぇ~」と思いましたね。
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著者プロフィール
浜田哲男 (はまだ・てつお)
千葉県出身。専修大学を卒業後、広告業界でのマーケティングプランナー・ライター業を経て独立。『ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)』の取材をはじめ、複数のスポーツ・エンタメ系メディアで企画・編集・執筆に携わる。『Sportiva(スポルティーバ)』で「野球人生を変えた名将の言動」を連載中。『カレーの世界史』(SBビジュアル新書)など幅広いジャンルでの編集協力も多数。