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【高校野球】全国制覇まであと2つでの登板回避 高校時代の達孝太は将来メジャーで投げることを最大の目標にしていた (4ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro

【負けたその日からトレーニング】

 そして迎えた最後の夏。天理は奈良大会準決勝で高田商にサヨナラ負け。5回から登板した達が最後に試合をひっくり返されゲームセット。達の高校野球はここでひと区切りとなった。

 じつは5月の終わりにヒジに炎症が出て、6月はほとんど投球をせず。7月から力をこめて投げ始め、なんとか大会に間に合わせようとしたが、万全の状態に持っていくには時間が足りなかった。

 背番号は11。奈良大会では3試合に投げ、準々決勝の法隆寺国際戦では84球で13奪三振完封を演じたが、好調時のボールではなかった。

 その後、ドラフトに向けた取材のなかで、最後の夏について達はこう語った。

「あの試合もベストではなかったんです。スピードも全体的に2、3キロ遅くて、選抜では2300〜2400台だった回転数も、夏の大会前は2200台が多くて。あまりいい数字ではなかったですし、大会中も大きく変わった感じではなかったです」

 そして達は、敗れた日からトレーニングを始めたとも語っていた。

「負けた日、寮に帰ってからひとりでやっていましたね。自分のなかでは、ひとつの区切りがついた、またここからという気持ちでした。甲子園に出なかった分、次に備えて練習する時間は増えた。そこはポジティブにとらえていました」

 勝ちも負けも、失敗も成功も、すべてを糧にして次へつなげる。話を聞きながら、随所に成功者の思考を感じたものだ。敗戦の翌日からは個別にジムにも通い、甲子園の様子をテレビや動画で見ることもいっさいなかったという。

 そうしたなか、8月末のブルペンでは自己最速となる149キロを記録。甲子園をかけた戦いを終えて以降、メジャーでの活躍を見据える男は、人知れず成長を重ねていた。

つづく

著者プロフィール

  • 谷上史朗

    谷上史朗 (たにがみ・しろう)

    1969年生まれ、大阪府出身。高校時代を長崎で過ごした元球児。イベント会社勤務を経て30歳でライターに。『野球太郎』『ホームラン』(以上、廣済堂出版)などに寄稿。著書に『マー君と7つの白球物語』(ぱる出版)、『一徹 智辯和歌山 高嶋仁甲子園最多勝監督の葛藤と決断』(インプレス)。共著に『異能の球人』(日刊スポーツ出版社)ほか多数。

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