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ブッチャーはリング外でもフォークを持ってファンサービス 元東スポ記者は「ザ・ファンクス」との流血試合も語った (4ページ目)

  • 大楽聡詞●取材・文 text by Dairaku Satoshi

――テリーさんの右腕を血だらけにしたブッチャーさんのフォーク攻撃がエグすぎて、強烈に記憶に残っています。

柴田:当時としては珍しい、外国人レスラー同士の頂上決戦。この試合でブッチャーとザ・シークは、"悪党外国人レスラー"というイメージが固定されました。同時に、悪党レスラーの反則に痛めつけられながら、耐えに耐えて何度も立ち上がる "テキサスブロンコ" テリー・ファンクの人気も上がった。爆発的なザ・ファンクス人気は、ブッチャーあってこそです。

 結局はザ・ファンクスに軍配が上がりますが、昭和の全日本プロレスを代表する名勝負でした。年末のタッグリーグ戦を全日本プロレスに定着させた、記念碑的な試合だと思いますね。

【控え室では孤独だった】

――なぜ、新日本プロレスに移籍したのでしょうか?

柴田:お金もあるでしょうが、トップとしての誇りも大切にしていたから、ほかの外国人レスラーの人気や扱いも影響したんじゃないかな。ただ、突然の移籍ではなく、馬場さんには事前に新日本に行くことを伝えていたそうです。契約したシリーズをプロとしてこなしたうえでの移籍。悪党レスラーだけど、筋は通す人でしたね。

 ただ......実は疎外感を感じることも多かったようですね。後楽園ホールは5階がリング、4階が控え室になっているんだけど、ブッチャーは控え室に入らず、若手が使う通路の階段で着替えていました。地方大会でも、ひとりで別の場所にいましたね。

――外国人レスラーの控え室にいなかったんですか?

柴田:あまりいなかったですね。露骨な差別はなかったでしょうけど、ほかのレスラーの目を気にしていたんでしょう。ブッチャーが外国人レスラーのトップであることを、面白くないと思うレスラーもいたはず。そうすると控え室の雰囲気が微妙になってしまう。地方巡業でも、ブッチャーの控え室だけ物置みたいに離れたところにあった記憶もありますね。寂しそうにしていましたよ。

――全日本では、看板シリーズだったシングルのリーグ戦「チャンピオン・カーニバル」では1976年、1979年と2回優勝しています。

柴田:1976年の第4回大会は、外国人レスラーとして初めての優勝でした。あの時は、優勝トロフィーを抱きしめて本当にうれしそうでしたね。さまざまな問題があるなかで優勝できたことが本当にうれしかったんでしょうね。

(連載13:ハルク・ホーガンは「でくの坊」からスーパースターへ 「イチバン」誕生秘話とアントニオ猪木の教え>>)

【プロフィール】

柴田惣一(しばた・そういち)

1958年、愛知県岡崎市出身。学習院大学法学部卒業後、1982年に東京スポーツ新聞社に入社。以降プロレス取材に携わり、第二運動部長、東スポWEB編集長などを歴任。2015年に退社後は、ウェブサイト『プロレスTIME』『プロレスTODAY』の編集長に就任。現在はプロレス解説者として各メディアで記事を掲載。テレビ朝日『ワールドプロレスリング』で四半世紀を超えて解説を務める。ネクタイ評論家としても知られる。カツラ疑惑があり、自ら「大人のファンタジー」として話題を振りまいている。

【写真】ケンコバのプロレス連載 試合フォトギャラリー

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