ブッチャーはリング外でもフォークを持ってファンサービス 元東スポ記者は「ザ・ファンクス」との流血試合も語った (2ページ目)
――馬場さんが書いた身元保証書とは?
柴田:「柴田惣一は東スポの記者であり特派員。プロレス取材を許可してほしい」といったことが書かれていました。僕のプロレス海外放浪記は、別の機会に話しましょう(苦笑)。
――それではブッチャーさんの話に戻りますが、自宅は豪邸だったと聞きます。
柴田:いや、意外とシンプルでしたよ。シャンデリアなどはなかったかな。ただ、土地が広かった。教えられた住所を頼りにタクシーで向かったんだけど、「ここらへんだよ」と言われたんですが、「ここは森でしょ?」と驚いた記憶があります。
その森のなかを車でしばらく走って、ようやく家に辿り着きました。ちなみにテキサス州サンアントニオ郊外のブルーザー・ブロディの家も同じで、とにかく広くて大きかった。ブッチャーの奥さまはファッション関係のお仕事をしていて、作った服を見せてくれました。「これは、ひとつ買わないとまずいのかな......」と思って、お土産として購入した思い出があります。けっこう評判はよかったですよ(笑)。
【生放送でのブッチャーの危機を救った"フォーク"】
――子どもの頃のブッチャーの印象は「フォークを持っている怖いレスラー」でした。
柴田:日本でブッチャーはヒールを貫き、常にフォークを持ち歩いていましたからね。
当時はディスコが流行っていて、ブッチャーはあの巨体でリズムよく踊るんです。レフェリー兼外国人係のジョー樋口さんに連れられて、フロアでダンスを披露していました。そうなると当然、「ブッチャーだ!」と騒ぎになって人が集まるわけです。気持ちよく踊っていたブッチャーは、気をよくしてフォークを取り出した。
本人はサービスのつもりだったんだろうけど、集まった人たちはびっくりして、蜘蛛の子を散らすように誰もいなくなりました(笑)。ブッチャーは立ち尽くして、「アローン」と嘆いていました。キラキラ回るミラーボールの下でひとりたたずむ光景は、なかなかシュールでしたね。
――旺盛なサービス精神が裏目に出てしまったんですね。
柴田:フォークといえば、僕も"使った"ことがありますよ。
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