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ブッチャーはリング外でもフォークを持ってファンサービス 元東スポ記者は「ザ・ファンクス」との流血試合も語った (3ページ目)

  • 大楽聡詞●取材・文 text by Dairaku Satoshi

 格闘技の専門チャンネルの『サムライTV」で共演した時のことです。60分の生放送の最後に、ブッチャーがゲームの宣伝をするために営業部員と一緒にスタジオに現れて、最初は営業部員がきちんとゲームの説明するはずだったのが、その前にブッチャーが暴れ出しちゃったんですよ。「Buy this game! Buy this game!」と繰り返しアピールしたんですが、番組終了まで1、2分ほど余ってしまったんです。

ブッチャーも困って、涙目になってきちゃって。僕は「まずいな」と思って、とっさに用意していたプラスチックのフォークを内ポケットから出して、ブッチャーに襲いかかるフリをしました。するとブッチャーは、「ありがとう」という顔をしてそのフォークを奪い、僕のシャツを破いた。最初は髪をつかもうとしたようですが、なぜか急に思い直したように手を下げた。

そこで生放送は終了。ワイシャツは弁償してもらえませんでしたが、六本木に移動して蕎麦をご馳走になりました(笑)。

――見事に危機を救ったんですね。

柴田:それも、ブッチャーのサービス精神ゆえの危機でしたね。レスラーのなかには、イメージを壊したくないからファンサービスをしない人も多かったですけど、ブッチャーはファンサービスの神。ファンに「写真を撮っていいですか?」と頼まれて撮ると、「1枚でいいの? 何枚でもいいよ」と。そういう場面に何度か立ち会いました。

【悪役レスラーのイメージが固まったタッグマッチ】

――もともとは全日本プロレスに出場していましたが、1981年に新日本プロレスに移籍しました。

柴田:ブッチャーは1970年8月、日本プロレスの「サマー・ビッグ・シリーズ」で初来日。当初は無名でしたが、開幕戦で馬場・アントニオ猪木の"BI砲"と対戦し、馬場さんからピンフォールを奪いました。その後、シリーズが進むにつれて人気もうなぎ上り。最終戦では馬場さんのインターナショナル王座に挑戦しました。その後も日本プロレスに参戦し、1972年に馬場さんが全日本プロレスを旗揚げすると、そこで外国人トップレスラーとして活躍しました。

――1977年の「世界オープンタッグ選手権」では、ザ・シークとタッグを結成しています。

柴田:ブッチャー&ザ・シークの「地上最凶悪コンビ」ですね。シリーズ最終戦、12月15日の蔵前国技館で、ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクの「ザ・ファンクス」を相手に大流血戦を繰り広げました。

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