前田日明の試合を見た佐竹雅昭は「大したことないな。これは勝てる」 UWF大ブームのなかで対戦を直談判した (3ページ目)
【前田日明に「僕と勝負してください!」と直談判】
前田日明は1978年8月に新日本プロレスでデビューし、1984年4月にユニバーサルプロレス(UWF)へと移籍。団体が経営不振に陥り、1986年から「UWF軍団」として新日本に復帰すると、同年10月にキックボクサーのドン中矢ニールセンとの異種格闘技戦で勝利を飾るなど、「新格闘王」と呼ばれて時代の寵児となった。
1987年11月、6人タッグマッチで長州力の顔面を蹴って負傷させたことが原因で、1988年2月に新日本を解雇となる。だが、同年5月に新生UWFを旗揚げ。興行は月1回という斬新な経営方針と、格闘技色を全面に押し出すプロレスで大ブームを巻き起こした。佐竹が『格闘技通信』で前田を見たのは、この「UWFブーム」全盛期の頃だった。
「僕はプロレスについてまったく知識がなかったので、前田さんが人気だということを知らなかったんです。それで調べてみると、前田さんがUWFという団体に所属していることがわかった。試合のビデオも見たんですが、その時は『大したことないな。これは勝てる』と思ったんです」
前田を倒せることを確信した佐竹は、行動に出る。
「前田さんに直接、挑戦状を渡すことを決めました。『格闘技通信』には前田さんのスケジュールが載っていて、近々、都内で開かれるサンボの大会にゲストで来場することがわかった。『よし、ここで渡すぞ!』と即断して、先輩の田島さんと一緒に乗り込みました」
さまざまな業界に広い人脈を持つ田島は、前田が当時、空手時代から師匠と仰いでいた田中正悟氏と旧知だった。その縁で、前田とも知り合いだったのだ。
「体育館に着いたら、前田さんがいて。まったくのアポなしでしたが、田島さんが『前田ちゃん!』と声をかけた。そこで僕は、『前田さん、僕と勝負してください!』と直談判しました」
まったく予期しない佐竹の挑戦表明にも、前田は落ち着いて諭したという。
「前田さんは『ちょっと待て』と制止して、『佐竹、お前のことは雑誌を読んで知っている。ただ、立場というものがある。俺はプロだ。物事には順序がある。段取りを踏んでこい』と逆に提案されました」
挑戦状は不発に終わった。しかし、近い将来の対戦実現に向けて動き出す。それが、前田が倒したニールセンとの一戦だった。
(第5回:K-1へとつながる異種格闘技戦 ニールセン戦を前に「前歯を4本抜いてください」)
【プロフィール】
佐竹雅昭(さたけ・まさあき)
1965年8月17日生まれ、大阪府吹田市出身。中学時代に空手家を志し、高校入学と同時に正道会館に入門。大学時代から全日本空手道選手権を通算4度制覇。ヨーロッパ全土、タイ、オーストラリア、アメリカへ武者修行し、そこで世界各国の格闘技、武術を学ぶ。1993年、格闘技イベント「K-1」の旗揚げに関わり、選手としても活躍する傍ら、映画やテレビ・ラジオのバラエティ番組などでも活動。2003年に「総合打撃道」という新武道を掲げ、京都府京都市に佐竹道場を構え総長を務める。2007年、京都の企業・会社・医院など、経営者を対象に「平成武師道」という人間活動学塾を立ち上げ、各地で講演を行なう。
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