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前田日明の試合を見た佐竹雅昭は「大したことないな。これは勝てる」 UWF大ブームのなかで対戦を直談判した (2ページ目)

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji

【空手家として生きると決めるも「こんな生活で大丈夫かな?」】

 試合後、優勝を過信した自分が許せなかった。

「悔しくて仕方がなくて『これが本物の戦いなら殺されていた。俺は何を油断していたんだ』と自問自答を繰り返しました。安易な気持ちで出場して、『勝って当たり前』と思っていた自分が許せなかった。その敗戦で目が覚めました。『俺が生きる道は、就職じゃない。もう1回、空手家を志した中学生の時の気持ちに戻ろう』と。

 当然、周囲は大反対です。実はこの時、不動産会社への就職が決まっていたんです。待遇もよかったから、さんざん『もったいない』と言われました。だけど僕は『そういう安定を求める生き方は俺じゃない。公園で毎日、木を相手に突きや蹴りを練習した頃のように、もう1回笑われよう』と思ったんです。

 自分が決めた道をやり通さないで人生を終わりたくない、もう1回ゼロからやろうと心を入れ替えて、空手家として生きようと思いました。この選択が、のちのK-1にもつながっているんです」

当時を振り返った佐竹氏 photo by Murakami Shogo当時を振り返った佐竹氏 photo by Murakami Shogoこの記事に関連する写真を見る

 空手家として生きる道を選んだ佐竹は、正道会館の指導員になった。

「月給は5万円でした。就職していれば、その何倍かはもらっていたでしょうけど、あの5万円のおかげで、『もっと強くならないといけない』と甘えずに済んだのですが......」

 1988年には、正道会館の「全日本選手権」で2連覇を達成。ただ、私生活は荒んでいた。

「常に『こんな生活で大丈夫かな?』という不安もありました。田島晴雄さんという風来坊な先輩がいて、稽古終わりに『行くでしょ?』とパチンコに誘ってくるわけですよ(笑)。田島さんは愛嬌のある憎めない方で、僕も断れなくて一緒につるんでました。ただ、そんな生活を続けながら、いつも心のどこかに『こんなんじゃダメだ』というモヤモヤがありました」

 そんななかで一冊の雑誌を目にする。ベースボール・マガジン社が発行する格闘技専門誌『格闘技通信』だった。そこに写っていたひとりのプロレスラーに目が釘付けになった。

「前田日明さんがポルシェに乗って、腕にロレックスをはめていたんです。その姿を見た時に電流が走って、『格闘技で食っていくためには、これしかない! 前田に勝って成り上がってやる』と。そこから、前田さんと対戦するためにはどうすればいいのかを考えるようになりました」

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