パルマ移籍以降は大きなインパクトを残せなかった中田英寿、それでも彼の功績を認めたイタリア政府は勲章を授けた
北中米ワールドカップの開幕が迫るなか、日本サッカーの歩みを振り返るうえで、ひとりの存在を抜きに語ることはできない。世界を舞台に闘い、日本代表の価値観を塗り替えた先駆者──中田英寿。2006年ドイツワールドカップ直後の現役引退からもうすぐ20年。本特集では、さまざまな視点と書き手によって、ヒデの軌跡を立体的に振り返る。
第5回(最終回)では、指揮官との不適合もあり、少しずつ"インパクトの薄い選手"になっていったイタリア時代後期を『ガゼッタ・デッロ・スポルト』紙記者が振り返る。
パルマでは不慣れな右ウイングで起用される時期があり、表情も曇りがちに Photo by Grazia Neri/Getty Images
ここからは、"そうでない話"のほうをしようと思う。舞台はパルマ、ボローニャ、フィレンツェ──人生を謳歌する人々の多い美しい3つの街で、対照的に、中田英寿のイタリアでの日々は少しずつ暗くなっていった。
2001年6月にローマでスクデットを獲得した中田はしかし、自身の居場所はそこにないと感じていた。10代の頃にユベントスに入団しなかった時と同じく、「プレーしなければ意味がない」と考えていたのだろう。優勝後にクラブがこちらもアタッカーのアントニオ・カッサーノを迎えていたため、状況を冷静に分析していたはずだ。
ACミランから中田の照会の連絡が何度も届き、ローマのフランコ・センシ会長は7月に、「ミランはマヌエル・ルイ・コスタを獲れなかったら、中田を加えたいようだ」と報道陣に話した。するとミランはルイ・コスタの獲得に成功し、中田は結局、パルマに推定移籍金550億リラ(約34億円)で移ることになった。
「昨季はあまりプレーできなかったけど、ここではより多くの出場機会があると思う。それにパルマでは静かな生活を送れるでしょう。ローマは時に、カオスだったから」と中田は移籍に際して話した。彼はサラリーの減額を受け入れてまで、出番と落ち着いた生活を求めたのだ。
パルマを統率したレンツォ・ウリビエリ監督は「中田はよく走る。私好みの選手だ」と言って、自身の堅実な戦術に見合うと喜んだ。中田は開幕前の合宿でチーム1の肺活量を記録し、監督の言葉を証明したが、いざシーズンが始まると、ピッチ上ではあまり目立たなかった。
キャリアで唯一のチャンピオンズリーグ──予選ではあったが──のリール戦では、トップ下で2試合にフル出場しながら、これといったインパクトは残せず、チームは2試合合計1-2で敗退してしまう。
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