大学ラグビーブームを盛り上げた「小さな巨人」 永友洋司は北島忠治監督のひと言でスクラムハーフの才能を開花させた
語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第9回】永友洋司
(都城高→明治大→サントリー)
ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。だから、ファンは皆、語り継ぎたくなる。
連載・第9回は、明治大学やサントリー(現・東京サントリーサンゴリアス)で活躍したSH永友洋司を紹介する。積極的な仕掛けと正確無比なプレースキックを武器に、ビッグゲームで何度もチームを勝利に導いた。1990年代の日本ラグビーを振り返る時に、必ずファンから名前を挙げられる「9番」だ。
※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)
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永友洋司/1971年3月14日生まれ、宮崎県児湯郡出身 photo by AFLOこの記事に関連する写真を見る 永友洋司の存在が全国のラグビーファンに知られるようになったのは、1990年代に切り替わる頃。国立競技場で行なわれた「早明戦」に6万人ほどの観客が集まり、最も大学ラグビーが盛り上がっていた時代だ。
身長は165cm。しかし、明治大を率いる北島忠治監督から「ちび」という愛称で呼ばれたSHは、紫紺のジャージーを着ると、ひと際大きく見えた。
明治大の誇る屈強なFW陣の中にいても、けっして見失うことはなかった。俊敏な動きで常に存在感を示し、時には相手の隙を突いてトライを奪い、冷静にプレースキックを決める──。その姿が、とにかく格好よかった。
かつて本人に、「一番覚えている試合は?」と聞いたことがある。
彼が挙げたのは、初めて出場した大学2年時の「早明戦」。ラストプレーで同点トライを挙げた早稲田大FB今泉清(当時4年生)をタックルで止めることができなかった──。あのドローゲームでの悔しさは今でも覚えているという。
その悔しさを胸に、早稲田大と再び激突した大学選手権・決勝。明治大は16-13で最大のライバルを下し、永友は自身初の日本一に輝いた。
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著者プロフィール
斉藤健仁 (さいとう・けんじ)
スポーツライター。 1975年4月27日生まれ、千葉県柏市育ち。2000年からラグビーとサッカーを中心に取材・執筆。ラグビーW杯は2003年から5回連続取材中。主な著書に『ラグビー『観戦力』が高まる』『世界のサッカーエンブレム完全解読ブック』など多数。