18歳の錦織圭「世界4位」フェレール撃破の衝撃 「グランドスラムでトップ5の選手に勝つとか、ありえない」
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錦織圭という奇跡【第29回】
喜多文明の視点(3)
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◆04石光孝次の視点>> ◆05玉川裕康の視点>>
◆06デイビッド・ロウ&マット・ロバーツの視点>> ◆07土居美咲の視点>>
◆08伊藤竜馬の視点>>
◆喜多文明の視点(1)>>「当時はまったく負ける気がしなかった」
◆喜多文明の視点(2)>>「日本に帰りたいという言葉は一切、聞かなかった」
世界ランキング4位。ATPツアー通算12勝。すべての四大大会でベスト8以上を記録し、2014全米オープンでは決勝進出──。
日本の男子テニス史を次々に塗り替えた錦織圭の『サクセスストーリー』において、13歳時に米国のIMGアカデミーに旅立ったことは、重要な栄光への序章だ。
この時、錦織とともに海を渡った少年は、あとふたりいる。ひとりは富田玄輝さん。現在は郷里の岡山でテニスコーチとして後進指導にあたっている。そしてもうひとりの喜多文明さんは、現在は株式会社リコー男子テニス部の監督。ふたりはいずれも、渡米3年目に帰国。錦織とは異なる道を歩みはじめた。
2008年の全米オープンで当時世界4位のフェレールに勝利した錦織圭 photo by AFLOこの記事に関連する写真を見る「僕が日本に帰ってきたのが、高校2年生の時。まだその時は、ITF(国際テニス連盟)のジュニア大会に出て、それなりに結果も出していたし、そのままテニスを続けていけたらいいなと思っていたんです」
喜多さんが、帰国後の日々を回想する。
「ITFジュニアランキングも、最終的には36位まで行きました。ただ、似たようなランキングでも、そこまでの行き方が僕と圭とでは違うな、とも感じていたんです。
僕はいくつかの大会でベスト4に入れることがあったりして、その蓄積でランキングが上がる。でも圭は、いきなりグレードの高い大会で優勝みたいにドーンと大きな結果を出す。ダブルスを組むにしても、パートナーが僕らの代では強くて有名なスター的選手になったり。その頃から『ちょっと住む世界が違うな』という感じになってきましたね」
漠然と「将来はプロになるだろう」と思っていた青写真に、迷いが混じり始めた時期。偶然か必然か、喜多さんと錦織の足跡は、その分岐点で再び交錯した。
「日本に帰ってきた時は、そのままプロになればいいかなと思っていたんですが、親や祖父には『高校くらいは卒業してほしい』と言われました。アメリカで取った単位を使って入れる通信制の高校を探してくれたんです。
高校を卒業できるとなったら、早稲田や慶應といった有名な大学に入るチャンスも出てきたんですよ。それまでは大学なんてぜんぜん考えてなかったんですが、こうなると、大学に行くのもいいかなって思うようになったんです」
最近では日本でも、大学からプロへと進む者も少なくない。ただ、当時の喜多さんにとっては、「大学進学イコール、プロはあきらめる」だった。
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著者プロフィール
内田 暁 (うちだ・あかつき)
編集プロダクション勤務を経てフリーランスに。2008年頃からテニスを追いはじめ、年の半分ほどは海外取材。著書に『錦織圭 リターンゲーム』(学研プラス)、『勝てる脳、負ける脳』(集英社)など。














