大学ラグビーブームを盛り上げた「小さな巨人」 永友洋司は北島忠治監督のひと言でスクラムハーフの才能を開花させた (2ページ目)
【1年生ながら北島監督に直談判】
さらに3年時の早明戦でも、永友は輝きを放つ。逆転トライを含む2トライ、2PG(ペナルティゴール)、1ゴールと大暴れ。チームが記録した16点すべてを挙げて勝利の立役者となり、続く大学選手権の決勝でも大東文化大を下して連覇を達成した。
永友がキャプテンとなった4年時は、大学選手権・準決勝で法政大に敗れて3連覇を逃した。それでも、自身最後の早明戦では「黄金の右足」が冴えわたり、当時の日本記録である1試合8PGを挙げて勝利をたぐり寄せた。
1990年代前半の明治大を象徴するゲームコントローラーだった永友は、宮崎県児湯郡の都農町で生まれる。小・中学校時代はサッカーに興じていたが、10歳離れた兄・伸二が宮崎の名門・高鍋高校でラグビーをしていたため、小さい頃から楕円球にも触れていた。
その頃、テレビで見た早明戦で、自分と同じように小柄ながら活躍していた早稲田大のSO本城和彦に目が止まる。グラウンドで輝きを放つ本城の姿に憧れて、永友は「ラグビーを始めたい」と思ったという。
都城高時代はSOやFBとしてプレーし、高校2年時は花園でベスト4に進出。高校日本代表にも選ばれ、キャプテンにも指名された。しかし、明治大に入ると選手層は想像以上に厚く、4年生の先輩SH中田雄一の後塵を拝していた。
試合に出たいけど、出られない......。高校代表だったプライドもあって、1年生の永友は北島監督に「どうして僕は出られないのですか?」と直談判した。
すると、北島監督は杖を使って地面の土にピッチの図を書いて「どうしたら一番、トライに近い?」と聞かれる。永友は「まっすぐです!」と答えた。その返答に対し、名伯楽はこう言った。
「お前は横に行っている。チャレンジしていない」
その言葉によって、永友の意識はガラッと変わった。どんなに劣勢でも積極的に仕掛けるように心がけるようになり、「プレーの幅が広がった」と振り返る。
また、キックに関しても北島監督から「練習で毎日、蹴るように」と言われたことを真摯に受け止め、愚直にそのアドバイスを実行した。その日々の積み重ねによって、大学2年時から「9番」を背負うようになった永友は、そこから一気にスターダムの階段を駆け上がっていった。
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