【育将・今西和男】片野坂知宏「引退後のための教育もしっかりされていた」 (3ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko

「Jリーグが開幕したばかりの頃ですから、派手な関東のヴェルディとか横浜マリノスとかのチームの選手と比べると、広島は個性がないと捉えられていたかもしれません。当時、メディアの前でもプロのサッカー選手というムードを見せる前に、普通の社会人としてふるまっていた人も多かったんです。23年経って、今はだいぶ変わってきましたが、昔のマスコミの方にとってのプロの個性というのは、ビッグマウスや派手な服装や装飾品であったりしましたから、広島は地味な印象であったんでしょう。でもよく見てもらえば、フィールドで行なっているサッカーは玄人受けするし、すごく個性的な選手がたくさんいましたよ」

 その個性については冒頭で先述した。この1994年優勝時の広島の先発メンバーの内、実に4人が(かつてはハシェックもヴィッセル神戸で指揮を執った)現在のJリーグで監督をしている。その理由を何だと思いますかと問うと、やはり今西の指導方針を挙げた。

「プロはいつまで現役でいられるか分からないから、その先のための教育を、今西さんがしっかりと選手が入団したときからされていて、そういう点ではセカンドキャリアについて自然と準備がされていたと思います。僕自身もその後、他のチームに移籍しましたが、広島で学んだものが芯にあって、そこでの仕事に生かされていました」

 片野坂は1995年のシーズン途中から柏レイソルに移籍し、4年半で通算103試合に出場する。アーリークロスの威力は絶大で、名古屋グランパスのサポーターからすると一時「空気を読まない片野坂」と言われていた。1996年9月28日の瑞穂競技場で退任するベンゲル監督(現・アーセナル)の最後の試合で、クロスをそのままゴールに放り込み、決勝点にしてしまったのだ。日本のラストゲームを敗戦で終えたベンゲルの挨拶時の苦笑した表情が印象的であった。

 柏から大分トリニータ(2000年)、ガンバ大阪(2000年~2001年)、ベガルタ仙台(2002年)とキャリアを続け、2003年に再び移籍した大分で現役を終えている。

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