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【プロ野球】「選手たちの目は死んでいた」 髙津臣吾が振り返る監督就任時の衝撃とチーム再建までの軌跡 (6ページ目)

  • 島村誠也●文 text by Shimamura Seiya

2021年の日本シリーズでオリックスを下し、胴上げされるヤクルト・髙津臣吾監督 photo by Sankei Visual2021年の日本シリーズでオリックスを下し、胴上げされるヤクルト・髙津臣吾監督 photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る

【人生初、誕生日に公式戦】

── 日本シリーズでは、オリックスを相手に先発陣の奮闘が印象的でした。2年目の奥川恭伸選手は山本由伸選手と互角の投げ合いを見せ、若手の高橋選手は大舞台でプロ初完封。そして、チームの苦しい時代を支えてきた石川選手、小川選手、さらには中堅となった原選手や高梨裕稔選手も見事なピッチングを見せてくれました。

髙津 そうですね。試合は1点差が5試合、2点差が1試合と、僅差の勝負が続きました。取ったり取られたりの連続でしたが、これぞ日本シリーズ、セ・リーグとパ・リーグの力と力がぶつかり合う戦いができたのは、先発6人の踏ん張りが大きかったと思います。

── 11月27日、3勝2敗でシリーズ制覇に王手をかけて迎えた第6戦は、ビジターの神戸・ほっともっとフィールドで行なわれました。試合開始時の気温はわずか8度。延長12回、試合時間5時間に及ぶ激闘となりました。

髙津 その前に、このシリーズでは人生で初めて、自分の誕生日に公式戦(試合)をしたんですよ。11月25日で、ムネがホームランを打って、哲人が8回裏に同点3ランを放ってくれた。勝てば誕生日に日本一という、絶対にありえないようなことが目の前で起こりかけていたのですが、最後はアダム・ジョーンズに勝ち越しホームランを打たれて負けてしまって(笑)。

 でも、あのふたりのアベック本塁打は忘れられないし、第2戦の奎二の完封、ヤス(奥川)が(スティーブン・)モヤにとんでもないホームランを浴びたシーンなど、すべてが強く印象に残っています。もちろん、最後に心に深く刻まれたのは、12回表の川端(慎吾)のレフト前への勝ち越しタイムリー、あの最高の1本ですね。とにかく、すべてが鮮明に記憶に残るシリーズでした

── コロナ禍で自粛していたビールかけも解禁されました。

髙津 球場からホテルに戻って会見を終え、祝勝会が始まったのは深夜2時か2時半くらいでした(笑)。当時の衣笠剛社長(2025年2月7日逝去)が「ぜひやりたい。好きなだけやれ」と言って準備してくださってね。本当に寒かったけど、本当にうれしかった。いい思い出になりました。

 翌日は、なかなか起きられませんでしたよ。チェックアウトの時間を少し遅らせてもらって、新神戸から新幹線で東京に戻るまでの景色や聴いていた音楽など、そのすべてが今でも忘れられません。

── どんな曲を聴いていたのですか?

髙津 それはちょっと(笑)。洋楽です、スローテンポの......。今でもその曲を聞くと当時のことを思い出しますね。

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髙津臣吾(たかつ・しんご)/1968年11月25日生まれ。広島県出身。広島工から亜細亜大に進み、90年ドラフト3位でヤクルトに入団。魔球シンカーを武器に守護神として活躍し、最優秀救援投手に4度輝くなどヤクルト黄金期を支えた。2004年、MLBのシカゴ・ホワイトソックスに移籍し、クローザーとして活躍。その後、韓国、台湾でもプレー。11年、独立リーグの新潟アルビレックスBCと契約。12年には選手兼監督として、チームを日本一へと導く。同年、現役を引退。14年にヤクルトの一軍投手コーチに就任、17年から二軍監督を務め、20年から一軍の監督として6年間指揮を執った。21、22年とリーグ優勝を果たし、21年には日本一に輝いた

著者プロフィール

  • 島村誠也

    島村誠也 (しまむら・せいや)

    1967年生まれ。21歳の時に『週刊プレイボーイ』編集部のフリーライター見習いに。1991年に映画『フィールド・オブ・ドリームス』の舞台となった野球場を取材。原作者W・P・キンセラ氏(故人)の言葉「野球場のホームプレートに立ってファウルラインを永遠に延長していくと、世界のほとんどが入ってしまう。そんな神話的レベルの虚構の世界を見せてくれるのが野球なんだ」は宝物となった。以降、2000年代前半まで、メジャーのスプリングトレーニング、公式戦、オールスター、ワールドシリーズを現地取材。現在は『web Sportiva』でヤクルトを中心に取材を続けている。

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