【プロ野球】「選手たちの目は死んでいた」 髙津臣吾が振り返る監督就任時の衝撃とチーム再建までの軌跡 (2ページ目)
── 就任1年目の2月の浦添キャンプでは、「まだ勝てるとは言えません」と。懸案の先発陣については、「石川雅規投手、小川泰弘投手、期待値をこめて高橋奎二投手は決まっていて、あとはグルグル回ることになります」と話していました。
髙津 この時に一軍メンバーが揃ったのですが、「本当にやることが多いなあ」というのが率直な感想でした。手探りで、課題は山ほどあって、手応えをつかめない。「これでは勝てない」という状態でのスタートでしたね。先発投手に関しては、結果的に6年間ずっと同じような状況が続きました。石川や小川に頼る形で、最初からそうだった。今年もそうですしね(笑)。
ふたりと肩を並べる存在がなかなか出てこずに過ごしてきましたが、それでも少しずつ力をつけて、ようやくここまで来たのかなと思います。野球選手として一人前になるとか、成長するとか、口で言うのは簡単ですけど、一気にドーンといく人なんて、そうそういないものです。
── 打線は前年、おもに3番を任されていた山田哲人選手を「僕はバントで送らないので」と、2番に据えました。
髙津 ムネ(村上宗隆)の4番は絶対だと思っていて、その前後、特にムネの前の3人をどういう順番で並べるかで大きく変わってくると考えていました。哲人とムネを並べるのもいいのですが、その間にひとり置くことでそれも生きるのかなと。二軍監督の時も、哲人を2番で使ったらどうなるんだろうなと思って、一軍の試合を見ていたこともありました。
── 7月には一時首位に立ちましたが、8月に大きく負け越し、最下位に終わりました。
髙津 難しいシーズンでした。コロナ禍により開幕したのが6月19日で、誰も経験したことがない無観客試合など、多少影響もあったと思います。手探りで始まって、どこから手をつけたらいいのか、何をどうしたらいいのか、たくさんありすぎてよくわからないシーズンだったことは間違いないです。
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