栗原陵矢が無名校進学の理由は「自転車で13分」 春江工出身として最初で最後のプロ野球選手となった
ダイヤの原石の記憶〜プロ野球選手のアマチュア時代
第13回 栗原陵矢(ソフトバンク)
8月末、右脇腹痛から2カ月ぶりに復帰したソフトバンク・栗原陵矢が元気だ。9月に限れば4割近い打率を残し、タカ軍団の連覇に貢献。小久保裕紀監督は「9月、大爆発しておいしいところを持っていってほしい」と語っていたが、ポストシーズンもおそらく、キーマンのひとりになるだろう。
春江工の4番として2年春の選抜に出場した栗原陵矢 photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る
【高校1年夏から正捕手として出場】
栗原を初めて取材したのは2012年の秋だから、もう13年前になる。当時の栗原は、福井・春江工高(現・坂井高)の1年生正捕手だった。高校球界では、まったく無名の高校である。
たとえば11年の公式戦での春江工は、春夏秋の通算で1勝3敗だから弱小もいいところだ。だが栗原といえば、福井ブレーブボーイズ時代から非凡な才能を見せ、中学3年夏にはボーイズの中日本代表メンバーとして中国遠征を経験したほど。しなやかな打撃と肩の強さは、県内外から引く手あまただった。それでも進学先に選んだのは、「自転車を一生懸命こいだら13分(笑)」と、家から近い春江工だった。
「練習を見学したら楽しそうだったし、監督さんも僕の好きな熱い人。それで入学を決めました」
そう栗原が語る指揮官は、川村忠義監督だ。地元の強豪・福井商2年だった1990年選抜に出場し、日本体育大では主力打者として活躍。卒業後に教師として赴任したのはやはり無名の羽水(うすい)高だったが、05年から監督になると、北信越大会に3回導いている。
09年に移った春江工では、その年から監督を務めていた。川村監督は、12年に栗原が入学すると「内角をうまく使う」と、すぐにマスクを任せた。最初は「スピードと体の違いに戸惑った」と語る栗原だが、すぐに克服。夏の大会でチームは初戦負けも、自身は「5番・捕手」としてフル出場している。
新チームでは4番を打って打率.529と県大会準優勝に貢献し、敦賀気比との決勝では、敗れはしたものの先制2ランを放っている。そうして進出した北信越大会。準決勝で新潟明訓を5対4で下した"無名の"春江工はなんと、翌年の選抜出場をほぼ確実にする。



























