【プロ野球】「選手たちの目は死んでいた」 髙津臣吾が振り返る監督就任時の衝撃とチーム再建までの軌跡
髙津臣吾インタビュー(前編)
ヤクルトの髙津臣吾監督が、チームを去ることになった。2020年に一軍の監督に就任すると、1年目は最下位に終わったが、21年にはチームを6年ぶりのリーグ優勝と、20年ぶりの日本一に導いた。その後は1位、5位、5位、6位と、ある意味でヤクルトらしい波乱に満ちた6年間だった。2025年シーズンも深まったころ、髙津監督は選手たちと共に喜び、笑い、悩み苦しんだ時間を、懐かしみながらも昨日のことのように振り返った。
今シーズン限りでヤクルトの監督を退任した髙津臣吾氏 photo by Kai Keijiroこの記事に関連する写真を見る
【チーム再建は並大抵のことではない】
── 一軍投手コーチを3年、二軍監督を3年務め、チームを熟知したうえでの一軍監督就任となりました。前年は最下位だったチームを引き継ぐことになりましたが、どのようなチームづくりをイメージしていたのでしょうか。
髙津 2019年のシーズンが終わったあと、すぐに顔合わせというか、みんなで集まって挨拶をさせてもらいました。「監督に就任することになりました」と。その時の選手たちの顔が忘れられないですね。目がどんよりよりしていたというか、もう目が死んでました(笑)。シーズン後というのもあったかもしれませんが、ギラギラしたものが感じられず、心も体も疲れきっているというのが第一印象でした。チーム再建という命を受けたんですけど、これは並大抵のことではないなと。
── どこから取り組みましたか。
髙津 まず「野球は楽しいもんだよ」「仕事としてすばらしい場所なんだよ」ということを知ってもらうことを一番に考えました。技術やチームとしての戦略は大切ですけど、それよりも元気づけるとか、やる気にさせるとか、そこが先だと思いました。ハードな練習をすることはあっても、厳しい人間付き合いはしたくなかった。そこはリラックスして、野球と直結するかは別として、人と人との付き合いは楽しく、面白くということは心がけました。
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著者プロフィール
島村誠也 (しまむら・せいや)
1967年生まれ。21歳の時に『週刊プレイボーイ』編集部のフリーライター見習いに。1991年に映画『フィールド・オブ・ドリームス』の舞台となった野球場を取材。原作者W・P・キンセラ氏(故人)の言葉「野球場のホームプレートに立ってファウルラインを永遠に延長していくと、世界のほとんどが入ってしまう。そんな神話的レベルの虚構の世界を見せてくれるのが野球なんだ」は宝物となった。以降、2000年代前半まで、メジャーのスプリングトレーニング、公式戦、オールスター、ワールドシリーズを現地取材。現在は『web Sportiva』でヤクルトを中心に取材を続けている。




































