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「父の上に行けるように」フィギュアスケート界の"サラブレッド"小塚崇彦が五輪の舞台に立つまで

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi

連載・日本人フィギュアスケーターの軌跡
第6回 小塚崇彦 前編(全2回)

 2026年2月のミラノ・コルティナ五輪を前に、21世紀の五輪(2002年ソルトレイクシティ大会〜2022年北京大会)に出場した日本人フィギュアスケーターの活躍や苦悩を振り返る本連載。第6回は、フィギュアスケート一家に育ち、2010年バンクーバー五輪に出場した小塚崇彦の軌跡を振り返る。前編は、悲願の五輪出場を決めるまでの道のりについて。

2006年世界ジュニア選手権を制した小塚崇彦。ノービス・ジュニア時代から高い資質を発揮していた photo by Kyodo News2006年世界ジュニア選手権を制した小塚崇彦。ノービス・ジュニア時代から高い資質を発揮していた photo by Kyodo News

【フィギュアスケート界のサラブレッド】

 2002年の高橋大輔、2005年の織田信成に続き、2006年に日本男子3人目の世界ジュニア選手権制覇を果たした小塚崇彦。

 祖父・光彦は戦前のフィギュアスケート選手であり、戦後に愛知県スケート連盟を創設した功労者で、父・嗣彦は1968年グルノーブル五輪代表だ。さらに母・幸子もフィギュアスケート選手というスケート一家で生まれ育った。

 高い技術力と安定した滑りが持ち味である小塚は、ノービス時代には全日本ノービスBと全日本ノービスAをともに連覇している。2002−2003シーズンからジュニアへ移行し、3季目の2004−2005シーズンには初出場の全日本選手権でSP首位発進。フリーでは順位を落としたが、本田武史、中庭健介、織田信成に次ぐ総合4位に入り、資質の高さをアピールした。

 そして、翌2005−2006シーズンはジュニアGPシリーズのカナダ大会2位のあと、日本大会を優勝。ジュニアGPファイナルでは日本男子として初優勝を果たす。その後も、全日本ジュニア選手権を初制覇。世界ジュニア選手権も制して、名実ともに高橋や織田を追いかける存在になった。

 シニアに移行した2006−2007シーズンは、GPシリーズに参戦する。初戦のフランス大会は「とても緊張していました」とSP11位と出遅れ総合6位にとどまったが、2戦目のNHK杯では合計を208.34点とし、高橋と織田に次ぐ3位で初のメダルを獲得した。

 翌2007−2008シーズンは、GPシリーズ初戦が8位、2戦目も5位。得点も200点台には届かない前半戦となったが、12月の全日本選手権ではステップアップした姿を見せた。

「自分の演技を精一杯やろうと思いました」と、SPは3回転ルッツ+3回転トーループが3回転+2回転になるミスを除けば、直近まで不調だったトリプルアクセルをきっちり決めるなど、あとは完璧に滑って72.70点の2位で発進した。

 4回転ジャンプに挑戦しない構成としたフリーは、後半の3回転ループが1回転になってしまったが、課題のジャンプのミスをそれだけに抑え、ガッツポーズの演技だった。4回転トーループ2本を決めた高橋には35点以上の差をつけられたが、合計は公認の自己ベストを10点以上上回る219.34点を出して2位。2008年の世界選手権代表を決めた。

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著者プロフィール

  • 折山淑美

    折山淑美 (おりやま・としみ)

    スポーツジャーナリスト。1953年、長野県生まれ。1992年のバルセロナ大会から五輪取材を始め、夏季・冬季ともに多数の大会をリポートしている。フィギュアスケート取材は1994年リレハンメル五輪からスタートし、2010年代はシニアデビュー後の羽生結弦の歩みを丹念に追う。

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