闘将・江藤慎一の軌跡を振り返る (12ページ目)
江夏豊のメジャー挑戦時の壮行パーティー。左から江藤慎一、長嶋茂雄、王貞治、江夏豊、鈴木啓示、張本勲
【第16回】江藤慎一に弟のようにかわいがられた江夏豊 逮捕後も「おい、やんちゃくれ来いと言ってくれた。実質、兄貴やったかな」
2000年ごろの江藤慎一
記事を読む>>【第15回】江藤慎一の晩年はスポンサー探しに奔走 所属選手の売り込みのため朝6時半にスカウトに電話をかけ続けた
アメリカから帰国した江夏豊(右)を出迎える江藤慎一(左)
記事を読む>>【第14回】江藤慎一が野球学校で教えていたこと 落合博満は「あいつほど練習した奴はいない」 イチローは「トップが残っているからええんや」
1985年、江藤慎一は静岡県に日本野球体育学校を設立した(写真:共同)
記事を読む>>【第13回】コーチには「絶対に手を上げるな」昭和の時代に暴力禁止を徹底 江藤慎一は日本初の野球学校を設立した
太平洋クラブライオンズ時代、選手権監督だった江藤慎一(写真:共同)
記事を読む>>【第12回】「磨けば光るダイヤモンドをどぶに捨てるのか」選手兼監督・江藤慎一はフロントに抗議をしてまでプロ3年目の真弓明信を使い続けた
大洋時代の江藤慎一(写真:共同)
1971年、江藤慎一はプロ野球史上初のセ・パ両リーグで首位打者を獲得した(写真:産経新聞社)
記事を読む>>【第10回】江藤慎一は前代未聞の悪条件のなか史上初めてセ・パ両リーグの首位打者を獲得。試合後は深夜まで六法全書を広げる日々だった
主審のジャッジに抗議する江藤慎一(右から2番目/写真:産経新聞社)
記事を読む>>【第10回】江藤慎一は前代未聞の悪条件のなか史上初めてセ・パ両リーグの首位打者を獲得。試合後は深夜まで六法全書を広げる日々だった
ロッテのユニフォームに身を包んだ江藤慎一(写真:産経新聞社)
1969年、名将・水原茂は中日の監督に就任した(写真は1970年の様子/写真:産経新聞社)
打者として大成した大島康徳だが、高校時代は投手だった(写真:産経新聞社)
記事を読む>>【第7回】江藤慎一の専属バッティング投手だった大島康徳。打撃練習なのにニューボールを使う決まりごとに驚いた
1967年9月20日の中日―巨人戦。判定をめぐり放棄試合寸前に(写真:産経新聞社)
記事を読む>>【第6回】中日VS巨人で起きた今ではありえない事件。中日の放棄試合となる寸前、江藤慎一のひと言で危機を脱した
江藤慎一のエピソードを語った井出峻監督(写真:筆者)
記事を読む>>【第6回】中日VS巨人で起きた今ではありえない事件。中日の放棄試合となる寸前、江藤慎一のひと言で危機を脱した
江藤慎一とは生涯の友情を育んだ張本勲(写真:産経新聞社)
記事を読む>>【第5回】張本勲が終生の友、江藤慎一を語る。「慎ちゃんも俺も白いメシを腹いっぱい食べたいと思ってプロを目指した」
江藤の母がスクラップしていた「勝浦日記」(写真提供:ぴあ)
記事を読む>>【第5回】張本勲が終生の友、江藤慎一を語る。「慎ちゃんも俺も白いメシを腹いっぱい食べたいと思ってプロを目指した」
江藤宅に届いた祝電の数々(写真提供:ぴあ)
記事を読む>>【第5回】張本勲が終生の友、江藤慎一を語る。「慎ちゃんも俺も白いメシを腹いっぱい食べたいと思ってプロを目指した」
江藤慎一と中日ドラゴンズで同僚だった権藤博(写真:産経新聞社)
徳島商業の板東英二は1959年に中日ドラゴンズ入団。江藤慎一と同期入団だった(写真:産経新聞社)
ダンベルでトレーニングをする江藤慎一(写真:産経新聞社)
中日ドラゴンズで活躍した江藤慎一(中央)。左は寺田陽介、右は長谷川繁雄。(1962年2月24日撮影/写真:産経新聞社)
加藤がヤオハン・ジャパン監督時代に江藤から贈られた書。「堪忍は一生の守り本尊 兵は戦場で育つ」(写真:筆者)