江藤慎一の晩年はスポンサー探しに奔走 所属選手の売り込みのため朝6時半にスカウトに電話をかけ続けた
昭和の名選手が語る、
"闘将"江藤慎一(第15回)
前回を読む>>江藤慎一が野球学校で教えていたこと 落合博満は「あいつほど練習した奴はいない」 イチローは「トップが残っているからええんや」
1960年代から70年代にかけて、野球界をにぎわせた江藤慎一という野球選手がいた(2008年没)。ファイトあふれるプレーで"闘将"と呼ばれ、日本プロ野球史上初のセ・パ両リーグで首位打者を獲得。ベストナインに6回選出されるなど、ONにも劣らない実力がありながら、その野球人生は波乱に満ちたものだった。一体、江藤慎一とは何者だったのか──。ジャーナリストであり、ノンフィクションライターでもある木村元彦が、数々の名選手、関係者の証言をもとに、不世出のプロ野球選手、江藤慎一の人生に迫る。
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江藤は竹峰丈太郎を阪神に送り出した3年後の1991年、天城ベースボールクラブを「全日本クラブ野球選手権」に出場させて初優勝を果たす。
江藤自身はアマチュア指導資格を持っていなかったが、野球連盟の承認を受けて顧問という立場でベンチ入りしていた。
さらにクラブ運営でも積極的な動きを見せた。翌1992年に小売り流通チェーン店のヤオハンと提携し、クラブをヤオハン・ジャパンという企業チームに改変したのである。
明治時代から続く小田原の青果業、八百半は、1970年代から拡張を続け、日本国内のみならず、アメリカ、コスタリカ、シンガポールなど世界的にチェーン店展開を行ない、1982年にはついに株式上場を果たしていた。勢いは止まらず、1991年11月には八百半デパートが、株式会社ヤオハン・ジャパンに商号変更を行なった。
これは、1996年に行なわれるヤオハンのCI(コーポレイト・アイデンティティー)導入に連なる流れであった。統一した企業イメージを構築するために企業理念を前面に打ち出して、それを象徴するロゴマークをあらたに打ち出すのである。
商号の変更には告知するために莫大な予算が投入されるが、江藤は、ヤオハンのオーナー一族に「社名変更にあたって宣伝広告で新聞各紙に1億円出すなら、同じ静岡の野球チームに投資されませんか」と説いた。業務委託費用1億円で、天城ベースボールクラブの選手を契約社員でもよいから勤務させてもらって都市対抗をともに目指しませんか、というものである。
確かに社会人チームとして試合に勝ち続ければ、紙面には社名が掲載される。これ以上ない、CI戦略とも言えた。この辺りのセンスは、自らの会社経営やロッテ、太平洋というスポンサー獲得に苦しんだチームを経験したことが、糧になっていたと言えようか。
ヤオハンはこの提携を受け入れ、江藤塾は天城ベースボ-ルクラブを経て、ついに社会人野球へと舵を切った。結果が出るのも早かった。ヤマハや河合楽器など、名門社会人チームがひしめく静岡でヤオハン・ジャパンは予選を勝ち抜いて1994年に都市対抗に出場する。
このときにトップバッターとしてチームをけん引した外野手が東大阪市生まれの大西崇之(現中日外野守備走塁コーチ)だった。
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著者プロフィール
木村元彦 (きむら・ゆきひこ)
ジャーナリスト。ノンフィクションライター。愛知県出身。アジア、東欧などの民族問題を中心に取材・執筆活動を展開。『オシムの言葉』(集英社)は2005年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞し、40万部のベストセラーになった。ほかに『争うは本意ならねど』(集英社)、『徳は孤ならず』(小学館)など著書多数。ランコ・ポポヴィッチの半生を描いた『コソボ 苦闘する親米国家』(集英社インターナショナル)が2023年1月26日に刊行された。