江藤慎一の晩年はスポンサー探しに奔走  所属選手の売り込みのため朝6時半にスカウトに電話をかけ続けた (3ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by 産経新聞社

 大西はやんちゃだった自分が人間としての土台を築いたのは、伊豆のヤオハン時代であったと公言して憚らない。

「働いて給料をもらって生活をすることの尊さを学んだしね。江藤さんについて忘れられへんのは、僕はインコースがなかなか打てなかったんで、どうしたら、いいですか?と訊いたら、『インコースを打たなきゃいいんだよ』と。なるほどなと。そんな発想は、自分のなかではなかったんで新鮮だったんですよ」

 権藤博の言葉を思い出す。「むしろ(江藤は)インコースが打てなかった。だけど、あれだけの迫力では投手は懐には投げられない。そこでインコースは捨てて踏み込む。それで打っていたんです」

 大西は懐かしそうに続けた。

「苦手なボールに手を出して凡打するより、要は打てる球をしっかりと仕留める。そして四球を選ぶ。首位打者を3回も獲った人の言葉やからね。プロに入る上では至言でした。何かこうして今、思い出しても江藤さんに怖いとか、厳しいとか思った記憶はないですね」

 大西がプロに巣立った翌年、1995年から加藤が監督に就任した。

 ところが、静岡予選を全敗してしまう。江藤がここで動いた。ロッテ時代の盟友であった木樽正明や野球殿堂入りした広岡達郎が指導に来てくれた。木樽も広岡も縦に落ちるスライダーを操る岡本真也(後に中日、西武、楽天)に目をかけて熱心にピッチングを教えてくれた。

 立て直した成果が出て、1997年の都市対抗にヤオハン・ジャパンは2回目の出場が決まった。チームは当然のことながら盛り上がった。「さあ、これからだ」監督の加藤も岡本を中心にまとまった選手たちもモチベーションが上がった。

 都市対抗が終わり、秋季練習に移行しようとしていた9月、いきなり全社員が会社に集められた。そこで選手たちは、信じられない通達を耳にする。

「ヤオハンは倒産いたしました。選手に関しては年末まで雇用契約はできるが、翌年からは、もう契約はできません」

 監督、コーチ、選手たちにすれば寝耳に水であった。ヤオハンはすさまじいスピードで世界的なコングロマリットに成長したが、過剰投資が仇となり、バブルの崩壊とともに終焉を迎えた。皮肉なことに都市対抗出場を果たした年にオーナー企業がつぶれてしまったのである。

「わしが何とかする」江藤はチームを受けてくれる企業を探しに奔走する。しかし、時代は大きく変わりつつあった。社会人野球からは、大昭和製紙も撤退していき、関東自動車も別の道を模索していた。企業による野球チームは衰退の一途をたどっていた。

 ネットワークビジネスのアムウェイがスポンサーに名乗りを上げてきた。チーム名はアムウェイ・レッドソックスという呼称に変わり、再びクラブチームとなった。冠に企業名がついたが、スポンサー料は年間500万円しかなかった。アムウェイ側はトップの江藤を筆頭にした自社の会員拡大を期待したが、江藤は頑として断った。

 加藤は「選手にアムウェイ会員を勧めることを期待されていた冠だったのかもしれませんし、さらなる支援もあったかもしれません。でも江藤さんは人間関係をビジネスにすることが大嫌いでしたから、ネーミングライツ以上のことはしませんでした」

3 / 4

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る