江藤慎一の晩年はスポンサー探しに奔走  所属選手の売り込みのため朝6時半にスカウトに電話をかけ続けた

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by 産経新聞社

 大西は中学卒業後に進路として選んだ大産大高校大東校舎を1年生の1学期で中退していた。

「喧嘩とタバコで揉めてケツまくったんですよ。家が土建屋やったんで、まあ中卒でそれを継いだらええわ、と思っていたんですね」(大西)

 実際に高校を辞めると同時にすぐに働くつもりであったが、祖父が大西が野球を辞めることを淋しがった。

「学校に行かなくなって1、2カ月、ぼけーっと何もせんと、親の仕事を手伝いながら、ほんま、その辺のちんぴらみたいなもんですよ。そのとき、実は母方のおじいちゃんが、肺がんで厳しい状態だったんですけど、白いハンカチに野球のボールの絵を描いて、家族や親せきの寄せ書きみたいなんを送ってくれたんです。おじいちゃんは画の先生をやってたんですけど、頑張れ!とか野球辞めるな!とか、何やこれ、何でみんなまた俺に野球させんねんて思っているときに鹿児島商工(現樟南)の監督が、うちにけえへんかって誘ってくれてたんです」(大西)

 鹿児島での寮生活は自宅から通うよりも厳しい生活であったが、大西は、祖父にまだユニフォーム姿を見せたいと一念奮起をして鹿児島商工に転入する。

「あの鹿児島での生活を1億円やるからもう一度やれと、言われても絶対に断ります」という日常のなかで、3年の春と夏に続けて甲子園に出場する。プロも注目する選手であったが、卒業後は学校の薦めるままに亜細亜大学に進学した。鹿児島商工は大学とのパイプが欲しかったと思われる。

 しかし、大西は当時の亜細亜大の軍隊のような管理体質に合わず、再び1年生の半ばで中退すると大阪に戻った。野球を続けたく、オリックスの入団テストを受けるも合格とはならなかった。プロに行きたいという夢は継続していたが、このままでは、所属がなくなる。しかし、オリックスのスカウトがヤオハン・ジャパンの存在を教えてくれた。

 当時のヤオハンの監督は中日や阪急でプレーをしていた後、アマ指導者資格を取得していた岡嶋博治で、オリックスとは親和性があった。「岡嶋さんのところで数年鍛えたら、プロに行ける選手です」という連絡がオリックスからヤオハンに入った。

 大西はこうして伊豆に向かった。野球をあきらめきれず、都度、挫折を乗り越えてきた大西が、再チャレンジをしたい人間に門戸を開くことを目的にした江藤のチームに入団したのは、必然とも言えた。

 江藤塾時代から無報酬でチームを支えていた加藤和幸(現明治大学付属明治高校野球部監督)は、ヤオハンになってから、ようやくコーチとして給料を受け取れるようになった。選手も監督もコーチも業務委託で1年に1度、ヤオハンの野球部長と話し合ってその都度、契約を更改していくというシステムであった。ボーナスは夏、冬で1か月ずつ支給されたが、ベースとなる基本給は江藤のプロ的な考えから、年齢ではなく、実力で金額が決められるというものであった。

 大西は当時の手取りで約25万円、トップクラスの評価を得ていた。オフはスーパーマーケットの店頭にも立ち、礼儀正しいふるまいからパートの女性店員さんたちから愛された。

 大西は伊豆の地で存分に野球に浸り、パンチのある1番バッターとして2本の本塁打を都市対抗の初戦で放つなどして、活躍を続けた。江藤は1994年のドラフトが近づくと現役時代からつきあいがあった中日のスカウトである法元英明に毎朝電話をかけ続けた。大西にプロ入りの意思が強くあることを伝えて売り込んだのである。

 法元はこう回顧する。

「江藤は朝が早くてね。毎朝6時半頃に電話が鳴るわけですよ。『ホウさん、大西の真面目な練習態度、あるいは、日頃のチームのなかで感じる価値観、そういうものを見て、ああ、こいつはプロへやりたいと、俺は心底思っているんだ』と、熱心に語るわけです」

 ベテランスカウトの法元もまた鹿児島商工時代から大西のプレーを見ており、都市対抗での活躍も知れ渡っていたので、ドラフト6位で指名となった。大西はその後、中日、巨人で俊足好守の外野手として活躍し、指導者としてもこの2球団で外野守備走塁コーチを務めている。

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