【レジェンドランナーの記憶】五輪に二度出場の谷口浩美は、昨年1月に病魔に襲われるも「マラソンのおかげで命を救われた」 (3ページ目)
【二度目の五輪となるアトランタは「さんざんでした(苦笑)」】
バルセロナ五輪以降、谷口は優勝こそできなかったが、1993年のボストンマラソンで4位、1995年のびわ湖毎日マラソンで4位とコンスタントに結果を残した。そして、同年12月、アトランタ五輪の選考レースとなった福岡国際マラソンを迎える。レースに向け、谷口は同じ旭化成の後輩である川嶋伸次や大崎栄ら5名の選手と一緒にマラソン練習を行なっていた。
「その頃はコーチも兼任していたのですが、みんなは練習で5km14分30秒ペースぐらいで走るけど、私は体力もスピードも落ちて、どう頑張っても15分30秒ぐらいでしか走れない。でも、不思議なことに、レースで彼らに負ける気がしなかった。自分が一番最初にゴールするだろうなと思っていたんです」
レースはペースメーカーがつき、5km15分ペースで進む予定だったが、ペースメーカーの選手が勘違いをしたのか、最初の5kmを15分30秒で入った。これで谷口はいけると思った。
「自分にはちょうどいいペースだったんですけど、14分30秒で調整してきた選手は1分も遅いわけじゃないですか。かといって、ひとりだけ速く走るわけにもいかないし、その余力をどこに流すかというと、上に跳ねてスピードを落とすしかない。培ってきたバネを(前方ではなく上に)跳んで消費しているので、30km以降はもたないだろうなと。5kmを通過した時点で私の勝ちだなと思いました」
30kmを越えると、旭化成の選手は誰もおらず、谷口だけになっていた。最終的に花田勝彦(現・早稲田大学競走部駅伝監督)らに敗れて7位になったが、花田は10000mの代表に選出され、谷口は過去の実績などを評価され、アトランタ五輪のマラソン代表に選ばれた。
「アトランタは36歳での挑戦で、練習とか調整がうまくいかず、レースも19位に終わり、さんざんでした(苦笑)。あまりにも悔しいので、(2000年の)シドニー五輪を目指そうと思ったのですが、会社では指導者の道が敷かれ、選手としては挑戦できない。とはいえ、会社を離れてやる自信もなかったので、そのままの流れで翌年に引退をしました」
その後、旭化成のコーチを皮切りに実業団や大学での指導を経て、2017年、地元の宮崎大学の特別教授に就任した。
「五輪を2回走ることができましたし、指導を経験することもできました。最後に学生の頃の夢だった教職に就いて、2020年3月まで宮崎大学で教壇に立つことができました。自分のやりたいことはすべてやってきたので、そこは満足しています」
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