【レジェンドランナーの記憶】五輪に二度出場の谷口浩美は、昨年1月に病魔に襲われるも「マラソンのおかげで命を救われた」 (2ページ目)
【速すぎる中山竹通の存在が自分を成長させてくれた】
森下は旭化成の後輩だった。
「森下は同じチームでしたし、バルセロナ五輪前は、本番とコースがほぼ同じのカタルーニャマラソンを一緒に視察したんです。彼は、スピードがあり、ラストスパートでは勝てない。じゃあ、どこで勝負すれば彼に勝てるのか。コースを見るとモンジュイックの丘を上って下る40km手前付近だと思いました。僕は靴が脱げて、そこまで森下と競ることができなかったんですが、金メダルの韓国の選手がそこで勝負をかけ、森下を突き放したんです。その録画映像を見た時、自分もそこで勝負したかったなぁと思いましたね」
森下は優勝争いにこそ敗れたが、銀メダルを獲得した。
「森下はメンタルで勝負するタイプ。集中している時は、監督もコーチも声をかけられないですし、ピリピリ感がすごかった。彼はバルセロナを含めて(競技人生で)3回しかマラソンを走っていないんです。その3レースが優勝、優勝、銀メダルですからね。本当にここって時の集中力がすごかった。ただ、身体のケアが足りなくてアキレス腱を痛めてしまい、その後は苦しんだので、もったいなかったですね」
五輪のマラソンで日本人選手がメダルを獲得したのは1968年メキシコ五輪で銀メダルを獲得した君原健二以来、24年ぶりの快挙だった。だが、森下はそれ以降、故障が続き、結局、バルセロナ五輪が最後のマラソンになった。
中山は、谷口にとっては追いつき、追い越すべき目標の選手だった。最初に衝撃を受けたのは、1984年の福岡国際マラソンだった。中山は、30km過ぎからスパートすると、そのまま独走し、優勝した(記録は当時日本歴代5位の2時間10分00秒)。
「私にとって初マラソンとなる別大(別府大分毎日マラソン)に向けて練習をしている時にテレビで中山さんの走りを見て、マラソンは30kmぐらいからスパートすればいいんだと思い、それを翌年の別大で実践して優勝することができたんです」
中山は強力なライバルだったが、実力差も感じていた。
「ともに日本代表に選ばれた1986年のソウルアジア大会の直前にニュージーランドで合宿をしたのですが、中山さんは速すぎて、足元にも及ばなかった。1991年の東京世界陸上でも中山さんには勝てないと思っていたのですが、何も抵抗せずに負けるのは嫌じゃないですか。それで、まずハーフまで離されずについていって、中山さんの独走プランを狂わせようと考えました。
ただ、ハーフまでついていけただけで安心すると終わってしまうので、その後をどう走るのかも考えました。結局、中山さんに勝てたのは自分の戦略通りに行けたのと、給水で一度の失敗もなかったから。その経験をバルセロナで生かしたかったのですが、こけちゃいましたからね(苦笑)」
谷口が中山に勝てたのは、東京世界陸上と1987年東京国際マラソンの二度だけだった。
「中山さんとレースで走る時は、中山さん対その他って感じでしたし、そのくらい強かったです。たぶん中山さんがライバルとして意識していたのは瀬古(利彦)さんだけだと思うんです。その中山さんに世陸で勝てた。ガチンコ勝負では勝てないですが、戦略と肉体と精神力を整え、勝負するところを見極めて戦えば勝てる。それがマラソンの面白さでもあるなと思いました。中山さんの存在が私を成長させてくれたのは間違いないです」
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