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髙田延彦のUWFインター時代を元東スポ記者・柴田惣一が語る 元横綱・北尾光司を一蹴して「最強」を証明

  • 大楽聡詞●取材・文 text by Dairaku Satoshi

プロレス解説者 柴田惣一の「プロレスタイムリープ」(17)

(連載16:髙田延彦のUWF参戦は「1試合だけ」のはずだった 新日本プロレスに翻弄された若手時代>>)

 1982年に東京スポーツ新聞社(東スポ)に入社後、40年以上にわたってプロレス取材を続けている柴田惣一氏。テレビ朝日のプロレス中継番組『ワールドプロレスリング』では全国のプロレスファンに向けて、取材力を駆使したレスラー情報を発信した。

 そんな柴田氏が、選りすぐりのプロレスエピソードを披露。連載の第17回は、前回に引き続き髙田延彦。一大ブームとなった第2次UWF、社長として設立したUWFインターナショナル(UWFインター)、衝撃の北尾光司戦などを語った。

1992年10月、元横綱の北尾(右)と対戦した髙田 photo by 東京スポーツ/アフロ1992年10月、元横綱の北尾(右)と対戦した髙田 photo by 東京スポーツ/アフロ

【前田日明とは「すばらしいコンビだった」】

――髙田さんは、越中詩郎選手とIWGPジュニア王座を賭けた "新・名勝負数え唄" でファンの心に勇姿を焼きつけました。

柴田:古舘伊知郎さんが実況で"わがままな膝小僧"と例えていましたよね。越中選手とは手が合ったのか、たくさんの名勝負が生まれました。

――1987年3月には、前田日明さんとタッグを組んで越中詩郎・武藤敬司組を下し、IWGPタッグ王者に輝きましたね。

柴田:UWFの登場は、新日本プロレスにとっても刺激になりました。前田さんと髙田さんはUWFのツートップで、人気もすごかった。関係がうまくいっている時は、すばらしいコンビでしたね。

 ただ、いろいろとあってふたりは袂を分かった。今のふたりの関係もわかりません。プロレスに対する考え方、人としての生き方とか、ボタンの掛け違いもあったんだろうけど......同志でもあり、ライバルでもあったふたりにしかわからない感情があるんだと思います。周りの人間たちの思惑も複雑にからみ合っていますしね。

――1988年4月からは、第2次UWF時代に移ります。第2次UWFは1カ月に1回、各地の主要な試合会場を回るビッグマッチ形式の興行を開催しました。

柴田:テレビがなくてもやっていける新しいシステムでしたね。当時は、「テレビがなきゃ無理だ」というのが定説。実際に、新日本はテレビ朝日、全日本プロレスは日本テレビと、資金面はもちろん、告知や営業などあらゆる面で強力スクラムを組んでいましたから。

 でも、第2次UWFはプロス業界の常識を覆した。それまであまり関わりがなかったプランナーや広告代理店の考えを取り入れて、新しい興行システム、団体運営システムを作り上げました。それが成功しましたね。

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