【ハイキュー‼×SVリーグ】東レ静岡の小野寺瑛輝が振り返る東日本大震災 「バレーの力」と白鳥沢学園のモデルになった東北高校時代の思い出
東レアローズ静岡 小野寺瑛輝
(連載52:東レ静岡の山口拓海は烏野の武田一鉄の言葉に「奮い立つ」 リベロとして目指すのは「陰の立役者」>>)
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「バレーボールは、"得点が決まって(勝つのが)楽しい"よりも、"このプレーが成功した"というほうが楽しいんです。できたことに喜びがあるというか。それがどんどん積み重なって今があるので」
小野寺瑛輝(23歳)は穏やかな声で言う。前髪を下ろし、黒縁の眼鏡をかけ、休日のデザイナーのような雰囲気を醸し出す。しかし、コートでは人が変わる。前髪を上げ、目つきも鋭くなり、熱い闘志を見せる。身長187cm、変身する長身セッターだ。
「『自分のためにこうしたい』っていう気持ちがあまり強くないんです」
小野寺はそう明かしている。
「『誰かのために、何かしてもらった人のために』という気持ちでやるのが自分にとってのバレーです。おじいちゃん、おばあちゃん、親戚、ちっちゃい頃によくしてもらった人が喜んでくれるか。お母さんも、何に代えても自分にバレーをさせてくれました。それに対して何ができるか。いろんなものを削ってやらせてもらったバレーで見せるしかないんです」
彼の覚悟を作り上げた少年時代があった――。
小野寺は、宮城県気仙沼市で生まれ育った。小学校に入った時にはバレーと巡り会っていた。3つ上の兄がチームに入っていて、送迎のたび、兄が楽しそうにしている姿に仄かな嫉妬があった。
ただ、小学4、5年の記憶が定かではない。
2011年3月、小3だった小野寺は東日本大震災を経験している。
「練習はしていなかったですね」
小野寺は静かな口調で言う。バレーができる状況ではなかった。
「練習していた小学校の体育館が地区の遺体安置所になって。体育館の床を張り替えて使えるようになったんですが......中学校の体育館は避難所で、校庭は仮設住宅で埋まっていました。おじいちゃん、おばあちゃんの家は(津波に)流されてしまい、お母さんが病院務めで休めなくて。母子家庭だったので、日中はおじいちゃんとおばあちゃんの避難所で過ごし、迎えに来たお母さんと夜に帰る毎日でした。いつ練習を再開したか、覚えていないです」
彼は感情を抑えて言う。だからこそ、深刻さが伝わった。甚大な被害を与えた震災が、少年の人間形成に影響を与えないわけがない。
「わがままは言わずに過ごしましたね。『言っちゃだめ』って言われたわけではないんですが、子どもでもわかる空気感でした(苦笑)。避難所は雑魚寝でプライベート空間もないから外に出て。がれきが集まるところに行って、アルバムとかを探していました」
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著者プロフィール
小宮良之 (こみやよしゆき)
スポーツライター。1972年生まれ、横浜出身。大学卒業後にバルセロナに渡り、スポーツライターに。語学力を駆使して五輪、W杯を現地取材後、06年に帰国。著書は20冊以上で『導かれし者』(角川文庫)、『アンチ・ドロップアウト』(集英社)など。『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家デビューし、2020年12月には『氷上のフェニックス』(角川文庫)を刊行。パリ五輪ではバレーボールを中心に取材。