【ハイキュー‼×SVリーグ】東レ静岡の山口拓海は烏野の武田一鉄の言葉に「奮い立つ」 リベロとして目指すのは「陰の立役者」
東レアローズ静岡 山口拓海
(連載51:NEC廣田あいが今でも覚えている古賀紗理那のひと言 『ハイキュー‼』では音駒の監督の言葉が「腑に落ちる」>>)
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「できることなら、スパイクで点を決めたいですよ。リベロは『身長が低いからやっている』みたいなところもあります(笑)。性には合っていると思いますが」
山口拓海(27歳)は少し皮肉っぽく、守備専門リベロというポジションについて語っている。謙虚で真面目、研究者然とした雰囲気もある彼なりの自己分析か。
「リベロにはリベロのよさがありますよ。コツコツやる、黙々とやるというのは自分が好きなタイプですし、レシーブは性に合っていると思います。練習で、何本も何本も受けるのは苦にならないんで」
山口は真っ直ぐな目で言った。
小学校に入学し、夏にはバレーを始めていた。学童時代のふたつ上の上級生に誘われ、見学した後にチームに入った。父親が中学3年間バレーをやっていたが、動機は「やってみようかな」くらいではっきりとは覚えていないという。
「最初は『バレーをやろう、バレーで勝とう』という感じではなくて。"バレー漬け"ってわけではなかったです」
山口は言う。基本はスパイカーだったが、セッターをやったこともある。高校1、2年はリベロだが、高3では人が足りず、守備型のサイドとしてプレーした。一方で、進学校の高崎高校で勉学にも励み、一般入試で筑波大学に進んだ。
「大学生の時も、卒業後にバレーをやるとは思っていませんでした。大学2年で就活を始めたんですが、そこで東レから声かけてもらって......3年生になって『行けるなら』って決めました」
非凡なレシーブ力は、賢い頭脳で考え尽くされたもので、本人が思っていた以上に評価を受けていた。東レでも、1年目からリベロとしてコートに立った。
「でも、1年目にパナソニック(現在の大阪ブルテオン)戦でけっこうやられて......」
山口は悔しさを思い出すように言った。
「当時はチームで、リベロが自分ひとりだったんです。3年間、それが続いて、僕自身は試合に出られるからよかったんですが。やられた試合の後はきつかった。悪くても出る状況が続くのはしんどくて......。でも、ある試合後、藤井(直伸、東レの栄光を支えた元日本代表セッター。31歳で死去)さんが寄り添ってくれて。何をしゃべったかは覚えていないんですけど、気持ちの面で助かりました」
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著者プロフィール
小宮良之 (こみやよしゆき)
スポーツライター。1972年生まれ、横浜出身。大学卒業後にバルセロナに渡り、スポーツライターに。語学力を駆使して五輪、W杯を現地取材後、06年に帰国。著書は20冊以上で『導かれし者』(角川文庫)、『アンチ・ドロップアウト』(集英社)など。『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家デビューし、2020年12月には『氷上のフェニックス』(角川文庫)を刊行。パリ五輪ではバレーボールを中心に取材。