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関根潤三から何も言われなかった尾花高夫は「年間200イニングを投げること」を目標にエースの座を死守した

  • 長谷川晶一●文 text by Hasegawa Shoichi

微笑みの鬼軍曹〜関根潤三伝
証言者:尾花高夫(後編)

前編:尾花高夫が振り返る指揮官・関根潤三との3年間はこちら>>

 広岡達朗が残したのは「勝つための厳しさ」、野村克也が示したのは「思考する野球」。では、その間に指揮を執った関根潤三がチームに遺したものとは──。ヤクルトのエースとして投げ続けた尾花高夫が語る、3人の指揮官の記憶。

1989年5月5日の中日戦で通算100勝をマークした尾花高夫(写真右)とこの試合で満塁本塁打を放った池山隆寛 photo by Kyodo News1989年5月5日の中日戦で通算100勝をマークした尾花高夫(写真右)とこの試合で満塁本塁打を放った池山隆寛 photo by Kyodo Newsこの記事に関連する写真を見る

【広岡達朗から学んだこと】

── 前編のラストで予告したように、今回はあらためて関根潤三監督について伺います。尾花さんがプロ入りした時は広岡達朗監督時代で、引退時は野村克也さんが監督でした。昭和と平成のスワローズ優勝監督時代を経験しています。

尾花 そうですね。広岡さん、野村さん、もちろん関根さんと、それぞれの個性があったし、それぞれの監督から、いろいろなことを教わったり、経験したりしましたね。

── プロ選手として活躍する土台、基礎をつくったのが広岡監督時代になりますが、広岡さんはどのような監督でしたか?

尾花 僕はドラフト4位での入団だったし、特別な才能があったわけでもないので、入団当時は「とにかく名前を覚えてもらいたい」という思いだけ。「とにかく必死にアピールしなければ」、そんな思いだけでしたよ。当時は今のように背番号の上に名前が表記されていなかったので、我々の時代は「おい、新人」とか「おい、そこの若いヤツ」としか呼ばれなかった。だから「まずは名前を覚えてもらうこと」を必死に考えていました。

── 広岡監督をはじめとする首脳陣、あるいは先輩たちに名前を覚えてもらうために、どんなことをしたのですか?

尾花 意識したのは、「とにかく元気よく積極的に」ということ。当時は神宮での全体練習が終わると、近くの国立競技場に移動してウエイトトレーニングをやって、それが終わると競技場のトラックを10周するという練習メニューだったんです。僕は中学の時に和歌山駅伝のメンバーとして優勝経験があるので、「長距離なら任せておけ」という感じだったので、いつもダントツ1位だったんです。

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著者プロフィール

  • 長谷川晶一

    長谷川晶一 (はせがわ・しょういち)

    1970年5月13日生まれ。早稲田大学商学部卒。出版社勤務を経て2003年にノンフィクションライターとなり、主に野球を中心に活動を続ける。05年よりプロ野球12球団すべてのファンクラブに入会し続ける、世界でただひとりの「12球団ファンクラブ評論家(R)」。主な著書に、『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間 完全版』(双葉文庫)、『基本は、真っ直ぐ──石川雅規42歳の肖像』(ベースボール・マガジン社)、『いつも、気づけば神宮に 東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」』(集英社)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)、『名将前夜 生涯一監督・野村克也の原点』(KADOKAWA)ほか多数。近刊は『大阪偕星学園キムチ部 素人高校生が漬物で全国制覇した成長の記録』(KADOKAWA)。日本文藝家協会会員。

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