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関根潤三から何も言われなかった尾花高夫は「年間200イニングを投げること」を目標にエースの座を死守した (2ページ目)

  • 長谷川晶一●文 text by Hasegawa Shoichi

── ルーキーがいつもダントツ1位だと、たしかに目立ちますね。

尾花 そうなると、広岡さんも「あの新人はスタミナがある」ということで名前を覚えてくれて、それがよかったのかどうかはわからないけど、ユマキャンプのメンバーにも選ばれました。そこでも積極的に大きな声を出しながらノックを受けていたら、森(昌彦/現・祇晶)コーチが自らミットを持って僕のボールを受けてくれるようになってね。結局は技術や実力ではなく、そういうところから名前を覚えてもらっていったんです。

【関根さんからは、特に何も言われなかった】

── 尾花さんが入団した78年に、スワローズは待望のリーグ制覇、初めての日本一となりますが、それ以降は監督が次々と代わりながら勝てないシーズンがずっと続きます。

尾花 プロに入団した時の監督が広岡さんだったので、僕にとっては「広岡さんがやっていることがプロでの当たり前」という感覚でした。だから、周りの選手たちは「練習が厳しい」と文句を言っていたけど、僕からすれば「練習するのは当然のこと」という考えだったし、そもそもPL学園時代のほうがもっと練習がきつかった。だから、「高校時代に比べればこんなものは楽勝だ」という考えだったんですけどね。そもそも僕は、「練習が厳しすぎる」なんて文句を言える立場になかったですから。

── 前編でも話していたように、ドラフト4位での入団であるし、まだ若手だったから、現状に不満を言える立場ではなかったということですね。

尾花 そんな立場の選手だったにもかかわらず、広岡監督は開幕からベンチに入れてくれたし、4月にプロ初登板、5月にはすぐに初先発の機会も与えてもらいました。今から考えれば広岡監督時代に、僕は土台をつくったんだと思います。

── その広岡監督は、優勝翌年の79年シーズン途中で解任。その後は武上四郎監督から、中西太監督代行、土橋正幸監督を経て、87年から関根潤三監督が誕生しました。この時すでに10年目を迎え、スワローズのエースとしての立場を築いていました。

尾花 と言っても、ほかに投げられる選手がいなかったから、僕が投げていただけのこと。関根さんからも、投手コーチの小谷正勝さんからも、特にあれこれ言われることはなかったですね。それまでは「先発に、抑えに」という起用だったし、チーム事情でリリーフした翌日に先発することもあったけど、関根さんの時代には「中5日」とか「中6日」とか、ローテーションどおりに投げることになって、その点ではずいぶんラクになりましたね。

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