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関根潤三から何も言われなかった尾花高夫は「年間200イニングを投げること」を目標にエースの座を死守した (3ページ目)

  • 長谷川晶一●文 text by Hasegawa Shoichi

── 関根監督、小谷コーチから「特に何も言われることがなかった」というのは、すでにエースとしての立場や実績を尊重してくれていたからでしょうか?

尾花 僕自身、本当に何も言われていないので、その点はわかりません。ただ、それまでの武上監督、土橋監督は口調が厳しかったけど、関根さんの場合は物腰も柔らかかったし、話し方も穏やかだったので、チーム全体のムードはガラリと変わったのは間違いないです。

【それぞれの指揮官が遺したもの】

── 当時若手だったギャオス内藤(尚行)さん、川崎憲次郎さんは、いずれも「関根さんは怖い人だった」と振り返っていますが、尾花さんにとっては「物腰も柔らかかった」という印象のほうが強いですか?

尾花 ギャオスや川崎はそうだったのかもしれないけど、少なくとも僕は「怖い」と思ったことはないですね。繰り返しになるけど、僕は何も言われなかったし、自由にやらせてもらっていたので。だから、この頃の僕は自分のやるべきことをきちんとやるだけ。そんな思いでマウンドに上がっていました。

── 「自分のやるべきこと」とは、具体的にはどんなことでしょうか?

尾花 僕らの時代は、先発投手であれば「年間200イニングを投げること」というのをすごく意識していました。しかも当時は、年間130試合制だったから、「オールスターゲーム前に規定投球回をクリアすること」というのを毎年の目標にしていました。そうじゃないと、200イニングを投げることはできなかったから。

── 関根監督時代の87年には206.2イニング、88年はリーグ最多の232.0イニングを投げていますが、89年は167.2イニングとなっています。

尾花 89年はあまり調子がよくなかったんですよね。前の年の疲れが残っていたのかもしれないし、やっぱり優勝争いをしているチームじゃないから、みんなが個人の成績のことだけを考えている状態で、あまりいいムードではなかったのも事実でしたね。これは一選手としてとやかく言えることじゃないけど、選手のなかに「絶対に優勝するぞ」という思いがなかったから、余計に自分のことばかり考えてしまっていた。そんな状況でしたね。

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